第2次世界大戦の終結とアジア・太平洋戦争での日本の敗北から70年となる2015年の幕開けです。歴史の節目の年明けにあたり、ほとんどの全国紙と地方紙が新年の社説で「戦後70年」を中心テーマに掲げたり、議論の切り口にしたりしています。昨年末に発足した第3次安倍晋三政権の「歴史認識」をめぐって国内外で大きな注目が集まり、不信と警戒も高まっているさなかでもあります。過去の戦争とどう向き合い、未来にどうのぞもうとするのか。マスメディアの基本的な立場も浮き彫りにしています。

首相の「歴史認識」めぐり

 新年の各紙社説は「戦後70年」を共通タイトルに歴史、政治、経済などさまざまな問題を論じていますが、「朝日」(3日付)は「忘れてはならないこと」、「毎日」(4日付)は「歴史と政治 自分史に閉じこもるな」で、安倍政権の過去の戦争にたいする認識や外交姿勢について問題を提起しました。

 一昨年の秘密保護法、昨年の集団的自衛権行使容認の閣議決定の賛否についてのマスメディアの立場の違いが、「歴史認識」でもあらわになっているのが特徴です。

 「朝日」は、安倍首相が戦後70年で新たな談話を出すというが、「戦争責任を素通りしてしまったら、どうなるか」と問い、日本の植民地支配と侵略に痛切な反省とおわびを表明した「村山談話」(1995年)の「価値を台無しにすることは許されない」と強調。「毎日」も「首相の周辺には、戦前への反省を『自虐史観』と排する人が少なくない。こうした考え方は、日本が少しずつ積み重ねてきた『和解』への努力を踏みにじるものだ」と指摘します。両社説ともに過去の戦争の反省にたち、「平和主義の歩みこそ、日本は誇り、守っていかねばならない」(「朝日」)「誇るべきは戦後の歩み」(「毎日」)としていることも大切な視点です。

 これにたいし「読売」(3日付)は「誤解正す対外発信力を高めたい」などとのべ、安倍首相について「戦後体制を否定する『歴史修正主義者』ではないか、との極めて偏った見方」が欧米「一部メディアなど」にあることの方を問題視します。しかし、侵略戦争を美化する靖国神社参拝を一昨年に強行し、いまだに無反省なのが安倍首相です。第2次大戦における日本やドイツの侵略国の行為を正当化しようとする安倍首相の立場こそ、世界のなかで異質な存在であることは明らかです。この安倍氏を擁護する立場では、いくら「未来志向」といってもアジアや世界に受け入れられないどころか、未来を閉ざすことにしかなりません。

 昨年7月に第2次安倍政権が、憲法解釈を乱暴に変更し強行した、集団的自衛権行使容認の閣議決定に賛成した「読売」(1日付)が「安全保障法制の整備を確実に進めなければならない」とあおったり、「産経」(1日付)が、日本の「自立」のために改憲を「躊躇(ちゅうちょ)せずに決断」することをけしかけたり(論説委員長の論評)するなど、引き続き安倍政権の暴走を加速させる立場を強めていることは、「言論・報道機関」としての資格が根本から問われるものです。

翼賛報道への責任と反省は

 侵略戦争を美化・正当化しようとする安倍政権にたいして、従来の自民党支持層からも強い警戒と批判の動きが出て、自民党元幹部らが「安倍政権では危ない」と声を上げる状況です。安倍政権が「戦争する国」づくりに向けた動きを強め、改憲姿勢を露骨にするなかで迎えた今年は、戦後70年という「歴史の節目」にとどまらず、戦後史の大きな転換の年となる様相を呈しています。

 日本の新聞は、戦前・戦中を通じて国民に真実を伝えず、「守れ満蒙 帝国の生命線」などと侵略戦争を推進するお先棒をかついだ深刻な歴史があります。「東京」(「中日」)(1日付)が、その過去に触れ「新聞の痛恨事は戦争を止めるどころか翼賛報道で戦争を煽(あお)り立てたこと」とのべ、「国民の側に立ち、権力を監視する義務と『言わねばならぬこと』を主張する責務」を強調したことは重いものがあります。

 第2次大戦で敗北したナチス・ドイツの新聞がすべて廃刊になったのにたいし、日本の新聞は戦後も同じ名前で存続するなど、戦争をあおった責任や反省を明確にしていません。いま戦争か平和かの歴史的な岐路に立つなかで、70年前までと同じ過ちを繰り返さないのか。マスメディアの責任が鋭く問われています。

(宮澤 毅)