主張
沖縄復帰41年
政府が返還のため何をしたか
沖縄が1972年5月15日に日本に復帰してから41年になりました。復帰後も米軍基地を押し付けるばかりか、県民にとってサンフランシスコ条約で日本から切り離された「屈辱の日」に式典を強行した安倍晋三政権への怒りがうずまく中で、この日を迎えました。
とりわけ重大なのは、政府や一部のマスメディアがサ条約で“主権が回復したから対米交渉で返還が実現した”と主張していることです。これほど歴史をゆがめることはありません。「政府は沖縄を切り離し、県民が願う返還の実現には応えなかった」という批判を真剣に受け止めるべきです。
切り捨てた責任ごまかす
日本がアメリカなど一部の戦勝国と結び、52年に発効したサ条約は、千島列島などを放棄して旧ソ連の不当な占領を認め、日本全土への米軍の駐留に道を開くとともに、第3条で沖縄、奄美、小笠原に対してアメリカが「行政、立法および司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有する」とうたっています。沖縄などを日本から切り離したものです。
こうした事実を無視して、サ条約発効の日を「主権回復の日」などと祝い、サ条約で“主権が回復したから交渉で沖縄返還が実現した”というのは、沖縄などを切り捨てたことをごまかす以外のなにものでもありません。
サ条約を締結した吉田茂首相は、アメリカが沖縄で「軍事上の必要から生ずる支配権」をもっていることを肯定し、サ条約発効後、アメリカが不当な軍事占領を続けた沖縄で「銃剣とブルドーザー」による無法な米軍基地拡大の強行を容認したのです。55年に現在の自民党が発足したあとも、鳩山一郎首相は、「いつ返還を請求するかという時期など考えていない」といい、60年に日米安保条約改定を強行した岸信介首相も「今日の状況ではまだむずかしい」というだけで、返還など口にもしませんでした。サ条約発効後、返還交渉が行われてきたようにいうのはまったくの虚構です。
沖縄とともに本土から切り離された奄美が53年、小笠原は68年に返還されたなかでも、沖縄の返還実現の障害になったのは沖縄の米軍基地です。60年代に佐藤栄作政権が発足し「返還」が議論されるようになってからも、沖縄での米軍の基地権と切り離して一部の「施政権」を日本に返す案や、沖縄には安保条約とは別の特別協定を適用して米軍の活動の自由を保障するなどの案が検討されたと研究者は明らかにしています。
佐藤政権が、ジョンソン、ニクソンの2代の米政権との交渉の末結んだ沖縄返還協定も、「核抜き、本土並み」は看板だけでした。占領時代と変わらない膨大な基地を温存し、核兵器の再持ち込みと有事のさいの「自由出撃」まで認めた密約つきの「返還」が、沖縄県民と本土の切実な願いを裏切るものだったことは明白です。
県民の願いに応えよ
こうした日本政府の態度にもかかわらず、沖縄の日本復帰を実現したのは、民族の主権を守り、「基地のない平和な沖縄」を願った県民のたたかいが原動力です。
復帰から41年にもなるのに県民に米軍基地の痛みを押し付け続けるのは異常です。県民の苦難に思いをはせるなら、「基地なくせ」の願いに応えることこそ重要です。