前回の続きから考えてみましょう。あいまいさと確かさのバランスはどこで取れば良いのでしょうか?
これは科学者にとってもむずかしい問題です。そこで私たち科学者は,あいまいさを認めながら,どこまで確かなのかを考えます。そのため「確かと不確かの線引きをどこにしているのか」が重要だと考えています。そして,これこそが考察で考えるべき課題です。
疑問で考えた「不確か」な部分は,どこまで「確か」になったのでしょうか?
みなさんの研究では,どこまでが確かでどこからが不確かなのでしょうか。その線は,研究を始める前からどれくらい確かの方へ進んだのでしょうか?
図1 研究によって不確かと確かのバランスはどう変わったのかを聴きたい
科学者が「きみはどんな客観的証拠から,それがただしいと考えたのか」と質問する理由は,ここにあります。私たちが知りたいのは,みなさんがそこで区切って分類する理由なのです(図1)。
たとえば,みなさんが学校のプリントを分類するときを考えてみましょう(図2)。
図2 授業で配られたプリントを分類しよう
ある人は「小テスト」「テスト」「授業のプリント」に分類するかもしれません。
別の人はすべてまとめて「教科毎」に分類するかもしれません。
他の人は「小テストとテスト」「授業のプリントは教科毎」に分類するかもしれません。
どの分類法にも良い点と悪い点があるでしょう。そこで,私たち科学者は,みなさんに質問します。
「どうして,きみの行っているの分類方法が良いと考えたのか?」
「その分類方法が他の分類方法よりも良いという客観的証拠はあるのか?」
みなさんが答えるべきことは,みなさんが分類方法を通して何を得たのかでしょう。
たとえば,つぎのような回答ができるかもしれません。
「この分類にしてからテストの点数が△学期□%ずつ上昇して,1年間で○%向上しました(結果)。成績が向上した理由は,分類をすることでわからない点がわかりやすくなって勉強の課題が見えるようになったこと,学習全体のつながりがわかりやすくなって理解が深まったことが挙げられます(考察)。たとえば,小テストのこの分類では……(考察の根拠を示す)。そこで,この分類方法で,友人たちに分類してもらいました(だれにでも成り立つのか)。その結果は……(結果と考察を示す)」
「以上の理由から,この分類方法が優れている点は◎◎,◆◆,▲▲です。これらの点は,△△や□□の分類方法とくらべて,××の点で自分の学習課題がわかりやすいことが優れています(まとめ)」
同じ質問を「不確か・確か」の二者択一で回答することは,ひじょうにむずかしいでしょう。たとえば,別の分類方法で勉強したら成績が良くなる人もいるからです。また,すべての教科に効果があるともかぎりません。研究をしても常に不確かさは残っていますので,「この勉強法で成績が上がるのは確かです」と答えれば「その勉強法には○○の課題があるから成績が上がらないこともあるだろう。それはどう考える?」と返されます。どうでしょうか? これが,みなさんが「わからない」と思う質問の正体なのかもしれません。つまり,「不確か・確か」の二者択一では質問に答えることができないため「(正解が)わかりません」という回答になるのではないでしょうか(図3)。
図3 正解・不正解で考えると答えられない
おなじ質問でも,二者択一ではなく,あいまいさを認めて説明していれば「その場合には,この学習方法の利点が活かしにくいので,成績が上がらない可能性があると思います。成績が上がりにくい場合は,○○の方法が適しているかもしれません」と答えることができるでしょう。みなさんが,科学研究を正解,不正解に分類して「わからない」と答えるのは,この「確かさと不確かさのバランス」を知らないからではないかと思います。
そして,このバランスを知らないことが「リスクをゼロにしたい」「すこしでも危険なものは避けたい」という話につながっているように思います。そうです。確かさと不確かさのバランスを知らないことは,みなさんの暮らしにも良くない影響をあたえています。なぜならみなさんの暮らしに関わる科学政策を決めるのは,私たち科学者ではなく,みなさんだからです。あいまいさが残ることを考えた上で,どこでバランスを取るのかが重要なのです。リスクをゼロにすることはできませんし,リスクを小さくすればするほどたくさんのお金が必要になります。どこかで我慢しなければ,いくらお金があっても足りなくなってしまうのです。
確かさと不確かさのバランスを知ることは,この世界で生きていくときに,きわめて重要です。だからこそ,私たち科学者は,みなさんが,どこで確かさと不確かさのバランスを取っているのか,なぜそこでバランスがとれていると思うのかを聴きたいのです。
私たち科学者が聴きたいことと,みなさんの回答のズレについて,疑問をもち,仮説を立て,観察した結果を,考察してみました。そう。これも研究です。『みなさんの研究発表での行動』を対象にした研究をシミュレーションしてみました。つぎに必要なのは,この新しい疑問を説明する仮説・予想がただしいかどうかを,研究計画を立て,実験・観察を通して考察していくことですね。
どうでしたか?
科学研究における疑問とは,つねに観察から生まれるものなのです。観察すべき対象は,いたるところにあり,私たちが疑問をもって観察することが重要なのです。科学研究のテーマは,むずかしいものである必要はありませんし,決して高価な機械や設備を用いることだけが科学研究ではありません。学校では行えないような専門研究の真似をすることだけが,科学者としての能力を伸ばすわけではありません。研究の進め方と研究発表の重要性の前編で示したように,みなさんがいまできることの中から研究テーマを考えることが重要です(図4)。
図4 できない・わからないことより,できる・わかることを
高度な研究にみなさんが憧れる気持ちはよくわかります。しかし,いま,みなさんが高価な装置を使った複雑な測定ができたとしても,それは「(小学生・中学生・高校生にしては)すごいね」というだけであって,みなさんが専門の研究者であれば「できて当たり前の仕事」に過ぎません。みなさんの科学者としての能力が評価されているわけではありませんし,みなさん自身が望む評価や将来への努力もそうしたものではないと思います。
そして,もっとも注意すべき点として,大学教育を受けてはじめて理解できる高度な知識に振りまわされて「知識のドレイ」になってはいけないのです。知識のドレイは,知識を得ることが目的になり,知識を信じ,知識に対して疑問をもつことができません。科学者とは懐疑主義者であり,なんでも疑ってかかる人々です。疑問のないところに科学は生まれません。科学者とは,知識を使い創りだす者であって,知識に使われる者ではないのです(図5)。科学研究では,知識をあますところなく使うことが必要なのであって,寿限無を唱えても意味はないのです。
図5 科学者とは新しいものを創りだす人々です
近年は,科学の発展する速度はとても速く,私たちが大学生のころに複雑な操作を必要とした機械は,いまではボタンひとつで操作できるようになってきました。かつては使うために修行が必要だった機械は,いまでは誰にでも使えるのです。科学が発展するにしたがって,実験・観察はかんたんになっていきます。ですから,いまは複雑で高価な機械や設備も,いずれはかんたんになっていくでしょう。つまり,複雑で高度な装置を使えるという自慢は,いまだけのもので,みなさんが科学者になったときには,それは何の意味もないことになります。
しかし,いつまでも変わらない重要なこともあります。それが,疑問であり,考察です。みなさんが科学者を目指して努力をつづけるのであれば,どんなにむずかしい専門的な内容でも,いずれは理解して行うことができます。あせることはありません。わからないことはそのままにして,大学で学んでも遅くはありません。しかし,観察から疑問を生み出す練習や,得られた結果を考察する練習は,いまからでも学ぶことができるのです。
専門ではないからこそできることはなんでしょうか?
わからないからこそできることはなんでしょうか?
それはかならずしも科学的な価値はないのかもしれません。しかし,どんなに優秀な科学者も価値のあることばかりやっていたわけではありません。成功者の多くは役立たない・価値のないことをたくさんしてきたからこそ,役に立つ・価値のあることの意味を知っています。逆に,いまの自分にとって価値のあることしかしていない人は,アリとキリギリスのキリギリスになってしまう可能性が高いと思います。いまは役に立たなかったり,意味がないと思う学習や経験が,みなさんの将来のために役に立つでしょう。
さまざまな経験によって得られた自分だけの疑問や考察の手法がなければ,どんなに優れた実験・観察技術をもっていても科学者にはなれないのです。科学者を目指すのであれば,だれかのコピーではなく,みなさん自身がオリジナルな存在にならなくてはならないのです。将来の目標に向けて,いま,みなさんにできることで努力しつづけることが重要です。
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