「だからなに? マキがなに考えてるかは分からないけど、わたしたちにどうこう出来るわけないし、あいつがなにを言おうとしたって、誰も信用するはずないでしょ。これは、そう言う話なの。・・・・・あんただって、それくらい分かるでしょ?」

若菜は泣きべそを掻いているのか、半ば嗚咽している。さすがに悠里の方も万策尽きたようだ。

「そうやってびびってると、今に本当にあんたの言うとおりになるかもね。そしたらどうする?・・・・・そのときは若菜、あんたに責任はとってもらうからね」

捨て台詞。悠里は、若菜を置いてトイレを飛び出してきた。

「待ってよ、あの子・・・・・本当にやばいんだってば・・・・」

遅れて、若菜が追いすがる。悠里は振り向かない。とっさに男子トイレの入り口に隠れた薫を顧みようともしなかった。

「待って・・・・・・」

今しかないと、薫は思った。続いて出ようとする若菜の肩を、薫は急いで引き止めた。

「待って」

「・・・・・や・・・・・何?・・・・・・」

反射的に若菜は薫を振り切ろうとして、愕然とした。誰に話を聞かれていたのかを、若菜は瞬間的に理解したのだ。振り返ったみるみる、若菜の表情に明確な驚愕の色が広がった。落とせる。反応だけなら、これだけでも十分なように思えた。

「わたしの顔、憶えてる? 野上若菜さん」

「知らない」

間髪いれずに胸元から取り出した手帳が、彼女の次の動きの絶好の牽制球になった。

「あなたたちが、今していた話に興味があるの。・・・・どこかでお話うかがえるかしら?」

若菜は片頬を吊って、無理に笑った。混乱が、去っていない。

「なに言ってるの、刑事さん。・・・・・あたし、別に悠里となにか話してたわけじゃないし」

「二階のトイレは空いてるわ、野上さん。たぶん今もね。葬儀の真っ最中に誰も席を立つ人はいない。すぐに戻らなくちゃ。こんな遠くのトイレに籠もって満冨さんと二人で一体、人に聞かれて困るような、どんなことを話してたの?」

「は? なに言ってんの、あたし別にそんな話とかしてないし」

若菜は薫を振り切って歩き出そうとした。ここで話を流されたり、応援を呼ばれたりすると困る。薫は一気に切り込むことにした。

「調べれば分かることよ。あなたたちが今話した内容をたどっていけばね。『マキ』についても、あなたたちがその子に何をしようとしたのかについても」

「・・・・・・・・・・・」

「あなたたちが奥田と言う男を使って、渋谷の真篠、と言う男が仕切っていた売春クラブの縄張りを取り仕切っていたことも、あらかた調べがついてるわ。・・・・・・あなたと満冨悠里、故人の嶋野美琴が、どうやらそれに積極的に関わっていたと言うこともね」

若菜の腫れぼったい顔に、動揺の色が走った。もともと、彼女は迷っていたのだ。満冨悠里がここにいたなら、手こずっただろうが、彼女だけなら、根拠の薄弱なこのネタも効果を発揮した。

「『マキ』と言う人物が、この事件に深く関わっていることも、わたしたちは掴みかけているわ。美琴を殺したのは確かに複数の男性グループの変質者かも知れないけど、彼らを集めて指示を下した人間は別にいて、そいつが主犯だと推定している。わたしたちの目的はその人物で、あなたたちが不法な行為に関わっていたことに興味はない。ことによっては不問にしてもいい。それにあなたたちがその人物に脅威を感じているのなら、話し次第では、あなたたちを保護することも出来るし」

保護。その言葉に、若菜は明らかに心動かされたらしい。

「聞くわ。まずはこれだけ答えて。美琴を殺したのは、『マキ』?」

かすかに。ぶるぶると、若菜は首を左右に振った。

「違う?」

彼女は泣いていた。もう一度同じ仕草をして、

「分かんない・・・・・分かんないよ・・・・・」

と、言った。

「分からないってどう言うこと?」

薫は辛抱強く聞いた。頭を抱えて、若菜は答えた。

「はっきりそうだって言えない・・・・・・見たわけじゃないから。でも・・・・・たぶん・・・・・」

彼女は脅威を感じているのだ。だからこその動揺のはずだった。

「あなたの意見でいいわ。『マキ』が美琴を殺した?」

若菜の答えを聞くのには、しばしの時間が掛かった。葛藤を振り切って告白に踏み切る人間の沈黙の綱が切れるのを、薫は辛抱強く待った。

こく、と若菜は肯いた。

許して、マキ。

美琴の絶叫が、再び、薫の脳裏に木霊す。

「どうして・・・・・あなたはそう思うの?・・・・・あなたたちがその子・・・・・『マキ』になにかしたから?」

若菜は答えなかった。躊躇の理由はなんとなく分かる。

「話は聞かせてもらった。何か、法に触れるようなことなのね?」

法に触れる、と言う言葉に若菜は反応した。今から、硬く口を閉ざす決意をしようとしたかのように。機先を制するかのように、薫は急いで言い足した。

「あなたたちがその子になにをしたかはこの際、問題じゃないし、わたしには興味もない。答えはイエスかノーよ、それだけ答えて。あなたたちは、『マキ』に何か、復讐されるようなことをしたのね? だから、彼女が美琴を殺した、張本人だと思ってる」

長い沈黙の後、ようやく若菜は肯き返した。ふーっ、と二人は同じタイミングで大きく息をついた。若菜は胸に溜まったものをついに吐き出してしまった脱力感、薫はようやくここまでたどり着いて一息ついた疲労感。若菜は目を反らし、薫は彼女を睨みつけた。再び、事実に立ち向かうために。

「あなたたちと『マキ』の諍いはなんとなく察しがついてる。だから話したくないことは話す必要はない。まず、どう言う経緯であなたたちがそうなったのか、その関係を話して」

「・・・・・あたしたちと」

若菜は言った。虚脱したような表情だった。

「あたしたちとあの子はなんの関係もない」

「なにも話さないのは通らないわよ。一から話してほしい? 亡くなった嶋野美琴を含めた、あなたたちが法に触れる行為を取り仕切っていたということと・・・・・」

「あの子とあたしたちは、もともとなんの関係もないっ!」

辺りに響くような震える声で、若菜は言った。

「ただ・・・・・ただ、美琴がマキならいいって。あの子なら、意気地なしだし、存在感ないし、どんなことしたって黙ってるし、周りの誰も気にしない・・・・・・そうやって言うからっ」

彼女の胸のうちを一瞬にして、激情がほとばしり出ていった。白いセーターを着た小さな肩がぶるぶると震えていた。落ち着け。

(・・・・まず、わたしから)

自分に言い聞かせるように薫は心の中で唱えると、われを失った若菜の嗚咽が落ち着くのを待って、慎重に話しかけた。

「・・・・・じゃあなぜ、あなたたちはなんの関係もない子にそんな、ひどいことをしようとしたの?」

「そんなこと、あんたに話しても分かるわけないでしょ」

「事実以外のことはね。なら、わたしから聞くわ。こう言うのはどう? あなたたちは『マキ』に無理やり売春をさせた」

「馬鹿じゃない・・・・・そんなことしてるわけない」

「・・・・・・なら」

若菜は首を振った。薫と同じ。悪夢を、振り払うように。

「あたしはこれ以上、なにも話さない。話す気はない」

「『マキ』の報復を受けてもいいのね? あなたが恐れていることが、これから現実になっても?」

「・・・・・・・・・」

応えはない。感情の鬱積を放出しつくしたせいか、今度は一転して硬い表情になり、そこから何も読み取れそうになくなった。取り乱してまとまった話が出来ないのも困るが、冷静になられるのもそれはそれで困る。若菜を落とすことで、聞き出すべき最低限の一点を、薫はまだ聞き出していない。

「そう」

と、薫は、一旦、呼吸を外すことにした。

「頭を冷やすことはなにも悪いことじゃないわ。必要なら、もう少し考えてから、結論を出してもいい。罪を得ても、最低でも命があるうちに。二人でよく相談するといいでしょう。・・・・・・ただ言っておくけど、そう遠くないうちに、わたしも、あなたたちのことを助けられなくなる時が、必ず来るわ」

薫の最後の脅しはそれなりに、効果を発揮したようだった。それはまだ、若菜が五分五分の地点に立っていることを明らかにした。

「一応、渡しておくわ。選択肢は増やしておくだけでも、安心出来るでしょ?」

薫が差し出した、番号のメモを若菜は無言で受け取った。

「・・・・・もう、行く。いいでしょ」

メモに目を落としてから、若菜は上目遣いで薫を見た。

「ええ、もちろん。・・・・でも、最後にひとつだけ教えて。『マキ』のことを。彼女はあなたたちの、なに?」

「同級生。同じ学校の」

「クラスとフルネームは?」

「・・・・・キタウラ。キタウラ・マキが本名。クラスは・・・・知らない。あたしはなにもあの子のこと知らないの。本当に」

若菜は言った。そして、それ以上は本当に何も話さない、と言う姿勢を示すために、顔を背けた。

「もういい?」

「ええ、ありがとう。手遅れにならないうちに、あなたからの電話、待ってるわ」

若菜は手で払うような仕草をして、薫を振り切ると、虚脱したような雰囲気で、ふらふらと去っていった。

 

(・・・・・同じ学校の同級生)

そして、やはり女の子だ。「マキ」の正体が判った。口ぶりでは、美琴がよく知っている様子だった。キタウラ・マキ。しかも彼女には、美琴たちに復讐するなんらかの動機があったと言う。ついに、尻尾を掴んだ。

もちろん、喜ぶのにはまだ早い。若菜の話の裏づけを取らねばならない。「マキ」の周辺を洗うことが次の仕事だ。幸い、美琴と同じ学校の「マキ」のプロフィールは、事前に押さえてある。キタウラ・マキ=北浦真希。これだ。すぐに発見することが出来た。

北浦真希、美琴とは同学年のG組。A組の特進クラスにいる美琴とは一見、なんの接点もなさそうだ。【被害者(美琴)との関係】についても、一行だけ。

「美琴とは一学年のとき、D組で同クラス」

としか、書かれていない。

若菜はさっき、「マキ」と自分たちとは、なんの関係もない、と言っていた。だがもしかしたら、それは若菜と悠里に限ったことで、美琴だけが、「マキ」と深い関わりを持っていた? そもそも、事件発生時の美琴の交際範囲には、浮上しなかった人物なのだ。だからこそ、薫は「マキ」を美琴の裏の顔の関係者と睨んだのだが。

上が騒がしくなってきた。出棺が始まるのだ。

「・・・・・あっ」

しまった。薫は、はっとした。そう言えば大分時間が経っている。若菜と同様、自分も持ち場をそう長くは離れてはいけない立場にいたのだ。会場に戻らなくては。金城にまた、迷惑をかけてしまう。薫が一歩、引き返そうとしたそのときだった。

ドン、と重たく突き上げるような衝撃が、薫の胸を襲った。悪夢がやってきたのだ。まさかこんなところで、こんなときに。吐き気を催すほどの強い力は一瞬で、薫の抵抗力を奪い去った。もしかしたら、今度こそ、ここで死ぬのではないか。そんな恐怖が、薫の脳裏を何度もかすめた。

(・・・・・待って!)

せっかくここまで、あなたを殺した「マキ」のことを突き止めたのに。どうして? こんなところで。

苦しさに、薫はついに膝を突き、床に伏せた。

(誰か)

声を上げることが出来たなら、なんのためらいもなく、薫は激痛に絶叫していたろう。

無惨な爆死を遂げた、美琴の断末魔が耳朶の奥に蘇った。

(死ぬのはいや・・・・)

いやだ。死にたくない。誰もがそう思う。だが、誰もが、その一縷の望みをかなえられるわけではない。

薫が死を覚悟した、まさにそのときだった。

「苦しいの?」

(・・・・・・誰?)

霞のように薄い声が、薫の頭上に降った。誰? 続いて、ふわりと、なにか暖かいものが身体を包んでくるような気配がした。

誰か呼んで。そう、薫は言おうとしたが、当然、それが言葉として形作られるはずもなかった。どうやら若い女の声と気配だが、その雰囲気は不思議と落ち着いていて、こんな状況にもかかわらず、なぜかそこを動く様子もない。なにやってるの早く。

薫が訴えようとした瞬間、ごく自然な所作でその手で彼女の裾を探って、ブラウスの中に差し入れられた。薫がはっとする間もなく、相手は双つのふくらみの間にある患部を見つけ出し、乳房ごとそこをぎゅっと握った。

「顔を上げて」

その声は、ERで処置する看護士のように明確な意思で、薫に指示を下した。苦しい呼吸の中で、薫はなすすべもなくそれに従うしかなかった。しかしなんとか顔を上げて、相手が誰か知ると、再び薫は愕然とした。

高校生なのだ。彼女は、美琴と同じ学校の制服を着ている。

「動かないで」

彼女は言った。それは依然、断固とした意思を持った声だった。

(この子)

喘ぎながら、薫は思った。

(知ってる・・・・見たことある。・・・・・確か美琴の学校で)

すれ違った。廊下で。そのどこか浮世離れした空気感がどこか印象に残っていた。そうだ。あのとき、悪夢に捕えられた。わたしの手帳を拾ってくれた、あの、女の子だ。

「おねがい・・・・・救急車を呼んで。胸が、苦しいの」

「心配ないわ。・・・・・このまま、静かに呼吸を整えて」

彼女は言った。ここを動くつもりはないと言う意思表示のため左右に振った。何を言うのだと、薫は思った。彼女はここを、動く気はまるでない、そう言うのだから。自分だけでどうにか出来ると思うの? なにを根拠に? そんなことは、絶対にありえないのに。

ふと、薫の呼吸に不思議な変化が兆した。空気が胸に入ってくる。呼吸が出来る? 信じられない。薫は目を見開いた。どうしたことか、手を当てられていただけで、胸の激痛もみるみるうちに治まっていったのだ。悪夢の起こる予兆は去って、すでに影も形もない。驚きに心乱して、薫は彼女を見返した。

「・・・・・・・・」

その様子を見て取ったのか、彼女はすぐに支えていた手を離した。薫は深い息を一回、大きく吐いて自分を取り戻した。

「あ・・・・ありがと」

彼女は、取るに足らないことだという風に、小さく息をつくと、ちょっと肩をすくめた。やっぱりだ。あのとき廊下ですれ違った、薫の電話を拾ってくれた、あの不思議な空気の女の子。

「悪夢を見た?」

彼女は、有無を言わせない口調でこう言った。

「見たのね」

「ええ」

「・・・・・やっぱり」

彼女は言うと薄く唇を緩めて、笑った。違いの少ない連続写真を見せられているように、変化はかすかだった。

「見た・・・・嶋野美琴。あの子が、どうして死んだのか?」

反射的に肯いてから、薫は、はっとした。

「どうしてそのこと?・・・・あなたが知って・・・・」

「見れば分かるよ。・・・・・だって、そんな感じだったし」

彼女は意味の通らないことで薫をからかっているかのように、悪戯げに首を傾げてみせると、

「よくあることだし」

(・・・・・どう言うこと?)

意味を答えずに、去っていった。

 

その夜、薫は何日かぶりに夢も見ずに熟睡した。意識を失うほど深く眠ったのは、本当に久しぶりだった。まるで台風一過の夜明けのように、悪夢は影も形もなく、薫の中から立ち去ってしまった。開放されてはじめて、その恐ろしさが分かる。断続的に、突然、繰り返し襲ってくる美琴の死のイメージは、確実に薫の神経を研ぎ澄まし、確実にその芯まで蝕んでいた。昨夜のようにひどくなる前に、精神科に行くことも真剣に考えていたのだ。

薫は倒れこんだベッドのシーツを直しながら、立ち上がった。甘く快い、疲労感の残滓がまだ身体にまとわりついている。鈍磨した神経の物憂い温かさが気持ちいい。昨夜深夜、シャワーを浴びずに寝てしまった不用意さを、後悔する間もないくらいに。

ダイニングテーブルの上の飲みかけのビールの缶を、薫は苦笑しながら流しに移した。

熱いシャワーが、健全な判断力を回復させる。単独捜査の進展が、実を結んだことを今は、単純に喜ぶべきだった。

マキ=北浦真希に、なんとかたどり着いた。まだはっきりしないながら、野上若菜の証言はかなり有力だ。

動機のあるこの同級生が、犯行の張本人の可能性は高い。彼女が美琴たちとなんらかのトラブルを起こし、ネットで参加者を募って、事件を起こさせた。これで一応の筋は通っている。主犯を取り押さえる証拠さえ得れば、解決まではあと、ほんの一歩だ。

金城には今日中にでも、相談を持ちかけようと思っていた。

鮭茶漬けにインスタントの貝の味噌汁で朝食をとりながら、携帯電話をチェックする。まだ、どこからも着信はなかった。昨日、若菜は確かにかなり動揺してはいたが、それほど早く転びはしないだろう。帰ってから満冨悠里に相談したとなると、まだ落ちるまでは時間が掛かりそうだが、別にこっちが焦る必要はない。北浦真希と彼女たちの背後関係を洗えば、おおよそのことは分かってくるはずだ。それにしても、彼女たちは、真希になにをしたのだろう?

そうだ。ふと、気づいて薫はバッグから菅沢の携帯も取り出した。予感めいたものでなく、失念したことを思い出した。それがまさか、薫が爆睡しているうち、着信が入っているとは思わなかった。

午前二時から五分の間に二件。二つとも、「非通知」。

薫は自分のうかつを恥じた。他人の電話を持っているということは、どうしても意識の外に置かれやすい。そのために着信音もバイブもマックスにしておいたのに、気づかないとは大失態だ。あわてて、薫は中を確認した。

二件目には留守録メモが入っている。薫は急いで再生した。

『・・・・・菅沢さん』

ピーッ、と言う受信音の後、出てきたのは、若い女の声だ。

『寝てる?・・・・珍しい・・・・いいネタを掴んだの。起きてからでもいいから、折り返し電話をちょうだい。待ち合わせ場所を指定する。折り返しのナンバーを言うね・・・・』

録音にもかかわらず、薫はあわてて手帳とペンを引き寄せた。女は機械的にナンバーを二回、繰り返した。連絡のそつのなさは、簡潔で無駄のない、実に馴れた手際だった。有無を言わさない感じ。菅沢が手玉にとられていたのが分かる。声は若いが、一体、何者なのだろう。

「マキ」。そうかも知れない。菅沢はそんな名前の女は知らない、そう言った。過剰な反応の否定だった。今思うと不自然だったかもしれない。

薫は迷わず、そのナンバーにコールしてみた。朝早すぎるかもしれないと思ったが、その心配は無用なようだった。ものの数回のコールで電話がつながった。出たのは、やはり連絡してきた若い女の声のようだった。

『・・・・・もしもし』

薫は黙っていた。

『あなたにしては上出来・・・・・朝早いけど。おめでとう、ちゃんと間に合ったね』

朝早いせいか、心なしか声には籠もった響きが感じられる。シーツを動かす音。たぶん、向こうも今、目を覚ましたに違いない。

『とっておきのネタよ。有力な証言者を同伴する。取材用のテープレコーダーを必ず持ってくること。今から詳しい、待ち合わせ場所を指定する。・・・・・・メモを用意して』

「OK」

声をひそめて薫は言った。相手はそのまま話した。池袋西口・・・・東部デパートの地下、噴水広場の腰掛。・・・・・エスカレーターのちょうど裏側のカフェの前。

『今から約二時間後、午前九時に。・・・・・絶対遅れないでね』

そのまま電話が切られそうな気配になった。

「待って」

思い切って薫は言った。切られるなら、もともとだと思った。

「緊急時の連絡方法は?」

案の定、電話口から漏れてきた女性の声に相手は戸惑った。

『あなたは誰?』

「菅沢の代理よ。わけあって同じ件を追ってる。彼はまだ・・・・眠ってるの。その間にメッセージが入ったら・・・・・わたしが代わりに出るように、そう、言われてて」

『へえ』

我ながら、つたないアドリブ。しかし、大した不審も持たずに相手は納得した。あまり、興味もないような言い方だった。

『それなら彼にも伝えておいて。緊急時にはこちらから連絡する。あなたが指定の時間に現れなかった場合、こっちは、あなたはこの件にもう興味はない、そう判断すると思って』

「あなたたちは何人で来るの? 特徴は? 本人だと確認する方法は?」

『人数は二人か・・・・・場合によっては三人になる。後の二つの質問については答えるまでもないと思う。あなたが分からなくても、菅沢が見れば、あたしたちが誰だかは分かるはずよ』

「それはあなたのこと? それとも、その有力な証言者のこと?」

あくびをする気配がした。眠たげなため息も。相手は、朝早い時間からそんな愚問にどうして答える必要がある、そう言っている。

『・・・・あなたが来ようが、菅沢が来ようがこちらにはあまり関係のないことよ。情報を提供する。取引の条件や方法については、あたしが決める。取り交わしたルールはそれだけ。・・・・後、残された問題は、あなたがそれを買えるか、買えないかってこと』

「お金が欲しいの? あなたがこうする目的は一体・・・・・」

ブツリ。電話は、突然、しかも一方的に切られた。

 

ふりかかった悲劇

二時間後、菅沢の情報提供者が現れる。しかも、とっておきらしいネタを持って。それは恐らく、同伴する有力な証言者のことに違いない。

相手は二人か、場合によっては三人で来ると言った。少なくとも一人を証言者とすれば、彼女はその証言者になにを話させる気なのだろうか?

考えるまでもなく、薫はすぐに準備を始めた。金城に連絡して、今朝は事情で出勤が遅れる旨を伝えておいた。後から考えれば、本当なら彼女はこのとき正直に事情を仲間に打ち明けて、対応策を検討すべきだった。しかし今。それをする手間すら物憂いほどに、薫は自分の考えに没頭しきっていた。

彼女は。自分たちについては、見れば分かると言った。なぜ? 彼女たちはひと目で分かる。答え、たぶん制服を着てくるから。

それに菅沢が調べている事件の有力な、最後の証言者と言えば、薫の知る限り、あの二人しかいない。=満冨悠里と野上若菜。