武藤 のコメント

大東亜論を読んでふと大久保と西郷の違いについて。
大久保利通が権謀術数を使い、西郷、江藤、板垣を追放し独裁政権を作り上げた。しかし、何故、大久保はここまで権力欲が強かったのか。
毛利敏彦著『大久保利通』によると
大久保家は薩摩の内部闘争に巻き込まれ、大久保利通の父親が島流しの苦難にあいました。
それから数年は苦しい日々が続くが、ここで大久保は粘り強さ、負けん気、慎重さなどの性格を身につけたという。
毛利氏によると「権力の恐ろしさ、冷酷さを見にしみて感じ、ことをなすには権力を握らねばと考えるに至ったかもしれない」と考察しています。
とにかく自分の理想、考えを実行するには権力側にいなければとした大久保は島津久光に接近し、薩摩での地位を盤石していきます。
盟友の西郷はというと、大久保と違い、権謀術数を使わなくても島津斉彬に重用され、君臣相通ずる仲になりました。しかし、斉彬の死後は久光に徹底的に嫌われ、島流しにあう苦難にあいました。
ここで、西郷は大きく人間を成長させ、維新をリードしていくことになります。
両者の違い…大久保は権謀術数を使い、常に権力側にいて政策を実行する。西郷は仮に君主であろうが
堂々諫言し正義を実行する。自分の生命を惜しまない。これが征韓論、江華島事件の両者の対応、反応に繋がっていくと思いました。
欧米巡遊での大久保の変化についてはビスマルクに会い、弱肉強食の国際社会を生き抜いたドイツ帝国の歴史を知り、感銘を受けたそうです。
大久保の朝鮮対応はフランスを挑発して普仏戦争に持ち込んだビスマルクの手法かもしれません。
大久保は巡遊前は政府内ではどちらかというと保守派の立場であり、進歩派であった木戸とは対立していた立場であったが、巡遊後は「富国の基礎を強固しなければならない!殖産興業をしなければ!」と大変化したと側近は証言しています。
これにより、大東亜論で描かれた西郷ら東洋道徳による日本を作り上げたいグループの対立の原点になるわけですね。
大久保は維新後の行動は毛利氏によると「みずからの責任を回避せず、すすんで困難にたちむかい、身を以て解決にあたる」ものだったそうです。
しかし、やり方が強引、江藤新平のように毛嫌いをする人間には私怨で晒し首にするなど、怨みを買うような行動をしています。
と見ると、大久保が殺されたことは必然であり、
大久保の後継者であった伊藤博文が大久保のような強権を用いず、漸進主義的な政策をとるようになったのも必然だと思いました。

No.51 109ヶ月前

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