こいら のコメント

道徳の話で思い出したのですが、とある自己啓発系の本に「小学校の頃に先生に言われたルールを守ればみんな幸せになります」みたいなことが書いてあって、気持ち悪くて捨てた経験があります。ビートたけしではないのですが、そういう「小学校の道徳を守れば幸せになれる」と信じて疑わない奴らがカルトにはまって周りを不幸せにする不道徳をやってしまいがちです。本人は純粋に公のためにいいことをしていても、単なる善意の押し売りだったという話は枚挙にいとまがありません。
道徳を語るには、自分自身の中の悪とかやましい部分と公との衝突をどう制御するか、というテーマは避けて通れないと思います。個人の悪の部分が際限なく拡張されて、しかも公の縛りがない状況では、殺人や強姦が横行して人間が獣に堕することは明白なのです。国家や宗教がそのような私欲の暴走に制度として縛りをかけるのは当たり前ですが、我々の心の内に制度からの私への介入が行われる前に、自分の悪の部分を制御する見えないルールとして道徳があると思います。
西欧ではそれが教会制度をはじめとする宗教であり、一神教への帰依の副産物としての倫理があるのに対して、我々日本人は天皇を中心にして日々生産の現場にいることそのものが、西欧における倫理の代わりになっていたような気がします。
そこで他人と調和し生産することで、個々人の悪の部分を制御できたのかもしれません。ゆえに、生産してとりあえず衣食に困らないことと道徳とは不可分なような気がします。
西欧が神と個人の間の契約として個人の悪の部分を改める(ゆえに悪を為したら牧師に懺悔するのですが)のに対して、日本では生産の現場にある共同体が行きすぎた個人の悪を諌める働きがあると思います。日本の道徳のあり方は極めて個人にリスクを負わせないという点で優れていますが、仮に共同体が集団で不道徳な方へ流れてしまい、それを客観的に見れる圧倒的な個人が異論を述べなければ、おかしな道徳がまかり通る危険もあります。
まったく個人で完璧に自分の悪の部分を制御できるという人間は洋の東西を問わず稀でしょう。それを個人と神の信託の許で行うか、共同体と個人の間で行うかが倫理と道徳の違いなのかもしれません。

No.93 109ヶ月前

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