よしりん先生、木蘭先生、みなぼん編集長、執筆・編集・配信、ありがとうございます。 よしりん先生はいつもバランスを取ろうとされているように思います。言論空間が左翼全体主義だった頃、その状況をなんとか真ん中あたりに戻そうとされ、慰安婦問題、歴史教科書問題、大東亜戦争肯定論と戦いを進められました。しかし『戦争論』の大ヒット後は、早くも「これから揺り戻しがくるぞ!」と警告を発しておられたのが非常に印象的でした。これは先生がごく初期からやっておられた姿勢だと思いますが、船の絃においては人のいない側に踏みとどまるという頭山的な姿勢であると考えます。 その後、確かに言論空間は一変し、左から右への揺り戻しが来たのです。右っぽい発言が人口に膾炙する状況となってからは、よしりん先生など先人の苦労を意に介することもなく、ホシュやウヨクの言葉が使いまわされました。しかもそれは、アメリカに従ったまま中韓に強く出るというだけの歪で卑怯なものでした。 さて、そもそも「初期ゴー宣」から続くゴーマンかますスタイルは、80年代の「全ての価値から逃げろや逃げろ」という価値相対主義へのアンチテーゼだったと思われますが、「わしの常識から判断してゴーマンかます!」、でも「かましてよかですか?」と入れるあたり奥床しいやろ?という、今も続くこの姿勢が私は大好きです。その判断基準となる常識とは、日本の歴史と伝統の英知をたっぷり含み込んだんだものですから、誰もが納得せざるを得ないものでした。 しかし内容を吟味せず、その断言調の語り口に対して脊髄反射的に反応した人々からの批判が殺到し、ゴー宣は死闘編に突入せねばならなくなりました。また、よしりん先生がそれらを論破しつくした後は、先生の言論の内容への賛同者が増えるというよりも、むしろ断言調の語り口だけが誰でも使えるツールのような扱いになり、誰もが無責任に放言できる状態になったわけです。ツールにばかり関心が向いて内容に無関心であれば、それは意味や価値といった言論の中枢部分からの逃避であり、これではポストモダンな価値相対主義と何ら変わりありません。 しかし、これも一種の揺り戻しなのでしょう。「左から右へ」に続いて「謙譲の美徳から責任を伴う断言へ」が企図されたはずですが、実際に起こったのは無責任な断言・放言でした。従って、左翼たちが右への揺り戻しを起こしたことを「世の中をクソみたいにした」と言うのなら、強さへの志向を高めたことも「世の中をクソみたいにした」と当然言うでしょう。そういう事態が起こる前に予め釘を刺された今回のゴー宣に見られる先生の先見性はやはり凄いと思います。また強さへの志向は安倍周辺の小賢しい見せかけの強さでないなら当然必要だと考えます。内政・外交のフリーハンドを得ること=宗主国からの真の独立を果たすには絶対に必要だからです。 そういう強さへの志向が必要だとしても、問題は断言・放言の流行が全体主義への傾斜を強める恐れがあることです。これまで左翼がよく言ってきた全体主義への道は、経済が悪化→自信を無くす→力に頼る傾向→軍国主義&全体主義、という単純極まりないものでした。しかし実際は、経済が悪化→余裕が失われ文化が衰退→喜怒哀楽の感情が劣化し言葉も貧しくなる→国民一般から政治家まで放言が多くなる→一番強い放言をした奴がエライという風潮→現状を変えそうなファシストを待望→全体主義、というものではないかと私は考えます。 断言調の煽動で大衆を熱狂させた代表的なファシストであるヒトラーもユーモアを解する能力が無かったようで、真面目に優生思想を信じてユダヤ人虐殺をやらかしたわけですが、これも感情の劣化やそれに起因する言葉の貧困と全体主義が地続きであることの証明でしょう。ここで思い出されるのが、ゴー宣道場の掟の一つに「笑い無き所に希望は無い」とあることです。これは、議論するにあたっては喜怒哀楽をバランスよく保ち、感情の劣化を排することが重要だと示唆を与えてくれるものだと考えています。 さて、属国状態が定着した現代日本では、国民の多くは独立を志向する強さより、弱い保護国のままの安定状態を望んでいるように見えます。それでも属国民としての苛立ちは感じているため、雰囲気だけでも強そうに見せる御仁、ポチでもOKだけど譲らない奴・強そうなな奴が求められています。しかし、北朝鮮のように主体性のある全体主義も怖いですが、宗主国の代執行官でしかない、つまり米国任せで主体性の無い全体主義者・安倍には、コンプレックスやルサンチマンを裏返したような残酷さがあるのではないかと危惧します。 恋愛は本能ではなく文化。これはリボンの騎士さんの質問に対するよしりん先生の回答の一節です。言葉遣いや立ち居振る舞いも文化の重要な構成要素ですから、経済状況が厳しくなったり、自由度が増したように見えて実は不自由であったりすれば、文化が貧弱になって愛を紡ぐ言葉も貧弱ゥとなり、健全・不健全に関わらず恋愛など無駄無駄無駄…となるでしょう。名曲「天城越え」なども団塊の世代がいなくなれば歌われることが少なくなるような気がします。 リボンさんの質問はいつも深く面白いので、勉強させてもらっています。いつぞや(新競技場の回)は注意もいただき有難うございました。 さて、木蘭先生の「ザ・神様」ですが、オトタチバナの「…だからこれ(海神の生贄になること)は、あなたのために私がしたいことなの」というセリフにゾクッときます。こんなことを言ってもらえる男は羨ましいと思う反面、それにより背負ってしまうものの大きさに戦慄してしいます。単なる犠牲でなく主体的にそうなることを選び取った動機は、貴方に守ってもらったから今度は私が守り返すというもので、高度成長期の画一的な家族像の復活を夢想する男尊女卑な御仁には極めて不都合なものでしょう。ゆえに不健全な日陰の恋愛とも映るのではないでしょうか。そして、やはり文化の精華の一つである文学は、健全な庶民より不健全な作家が紡ぐのが正しいのでしょう。 そして最後に、編集後記は今回も笑いました。「タマキン」って日本語じゃないですか(笑)。いくら日本語の世界語化が理想だとは言え、金玉均の「キンタマキン」読み(大東亜論)よりも酷いです。「アナキン」と打ち込んだら「穴金」と変換する私のPCも相当不健全(ダークサイド寄り)ですが…。ところで、ダークサイドを徹底的に排するジェダイという存在は、別の意味でかなり不健全ですよね。漂白されてしまうような別の不健全さを感じます。 断言・放言でとりま闇を追い払っても、全体主義という別の闇が訪れる na85
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よしりん先生、木蘭先生、みなぼん編集長、執筆・編集・配信、ありがとうございます。
よしりん先生はいつもバランスを取ろうとされているように思います。言論空間が左翼全体主義だった頃、その状況をなんとか真ん中あたりに戻そうとされ、慰安婦問題、歴史教科書問題、大東亜戦争肯定論と戦いを進められました。しかし『戦争論』の大ヒット後は、早くも「これから揺り戻しがくるぞ!」と警告を発しておられたのが非常に印象的でした。これは先生がごく初期からやっておられた姿勢だと思いますが、船の絃においては人のいない側に踏みとどまるという頭山的な姿勢であると考えます。
その後、確かに言論空間は一変し、左から右への揺り戻しが来たのです。右っぽい発言が人口に膾炙する状況となってからは、よしりん先生など先人の苦労を意に介することもなく、ホシュやウヨクの言葉が使いまわされました。しかもそれは、アメリカに従ったまま中韓に強く出るというだけの歪で卑怯なものでした。
さて、そもそも「初期ゴー宣」から続くゴーマンかますスタイルは、80年代の「全ての価値から逃げろや逃げろ」という価値相対主義へのアンチテーゼだったと思われますが、「わしの常識から判断してゴーマンかます!」、でも「かましてよかですか?」と入れるあたり奥床しいやろ?という、今も続くこの姿勢が私は大好きです。その判断基準となる常識とは、日本の歴史と伝統の英知をたっぷり含み込んだんだものですから、誰もが納得せざるを得ないものでした。
しかし内容を吟味せず、その断言調の語り口に対して脊髄反射的に反応した人々からの批判が殺到し、ゴー宣は死闘編に突入せねばならなくなりました。また、よしりん先生がそれらを論破しつくした後は、先生の言論の内容への賛同者が増えるというよりも、むしろ断言調の語り口だけが誰でも使えるツールのような扱いになり、誰もが無責任に放言できる状態になったわけです。ツールにばかり関心が向いて内容に無関心であれば、それは意味や価値といった言論の中枢部分からの逃避であり、これではポストモダンな価値相対主義と何ら変わりありません。
しかし、これも一種の揺り戻しなのでしょう。「左から右へ」に続いて「謙譲の美徳から責任を伴う断言へ」が企図されたはずですが、実際に起こったのは無責任な断言・放言でした。従って、左翼たちが右への揺り戻しを起こしたことを「世の中をクソみたいにした」と言うのなら、強さへの志向を高めたことも「世の中をクソみたいにした」と当然言うでしょう。そういう事態が起こる前に予め釘を刺された今回のゴー宣に見られる先生の先見性はやはり凄いと思います。また強さへの志向は安倍周辺の小賢しい見せかけの強さでないなら当然必要だと考えます。内政・外交のフリーハンドを得ること=宗主国からの真の独立を果たすには絶対に必要だからです。
そういう強さへの志向が必要だとしても、問題は断言・放言の流行が全体主義への傾斜を強める恐れがあることです。これまで左翼がよく言ってきた全体主義への道は、経済が悪化→自信を無くす→力に頼る傾向→軍国主義&全体主義、という単純極まりないものでした。しかし実際は、経済が悪化→余裕が失われ文化が衰退→喜怒哀楽の感情が劣化し言葉も貧しくなる→国民一般から政治家まで放言が多くなる→一番強い放言をした奴がエライという風潮→現状を変えそうなファシストを待望→全体主義、というものではないかと私は考えます。
断言調の煽動で大衆を熱狂させた代表的なファシストであるヒトラーもユーモアを解する能力が無かったようで、真面目に優生思想を信じてユダヤ人虐殺をやらかしたわけですが、これも感情の劣化やそれに起因する言葉の貧困と全体主義が地続きであることの証明でしょう。ここで思い出されるのが、ゴー宣道場の掟の一つに「笑い無き所に希望は無い」とあることです。これは、議論するにあたっては喜怒哀楽をバランスよく保ち、感情の劣化を排することが重要だと示唆を与えてくれるものだと考えています。
さて、属国状態が定着した現代日本では、国民の多くは独立を志向する強さより、弱い保護国のままの安定状態を望んでいるように見えます。それでも属国民としての苛立ちは感じているため、雰囲気だけでも強そうに見せる御仁、ポチでもOKだけど譲らない奴・強そうなな奴が求められています。しかし、北朝鮮のように主体性のある全体主義も怖いですが、宗主国の代執行官でしかない、つまり米国任せで主体性の無い全体主義者・安倍には、コンプレックスやルサンチマンを裏返したような残酷さがあるのではないかと危惧します。
恋愛は本能ではなく文化。これはリボンの騎士さんの質問に対するよしりん先生の回答の一節です。言葉遣いや立ち居振る舞いも文化の重要な構成要素ですから、経済状況が厳しくなったり、自由度が増したように見えて実は不自由であったりすれば、文化が貧弱になって愛を紡ぐ言葉も貧弱ゥとなり、健全・不健全に関わらず恋愛など無駄無駄無駄…となるでしょう。名曲「天城越え」なども団塊の世代がいなくなれば歌われることが少なくなるような気がします。
リボンさんの質問はいつも深く面白いので、勉強させてもらっています。いつぞや(新競技場の回)は注意もいただき有難うございました。
さて、木蘭先生の「ザ・神様」ですが、オトタチバナの「…だからこれ(海神の生贄になること)は、あなたのために私がしたいことなの」というセリフにゾクッときます。こんなことを言ってもらえる男は羨ましいと思う反面、それにより背負ってしまうものの大きさに戦慄してしいます。単なる犠牲でなく主体的にそうなることを選び取った動機は、貴方に守ってもらったから今度は私が守り返すというもので、高度成長期の画一的な家族像の復活を夢想する男尊女卑な御仁には極めて不都合なものでしょう。ゆえに不健全な日陰の恋愛とも映るのではないでしょうか。そして、やはり文化の精華の一つである文学は、健全な庶民より不健全な作家が紡ぐのが正しいのでしょう。
そして最後に、編集後記は今回も笑いました。「タマキン」って日本語じゃないですか(笑)。いくら日本語の世界語化が理想だとは言え、金玉均の「キンタマキン」読み(大東亜論)よりも酷いです。「アナキン」と打ち込んだら「穴金」と変換する私のPCも相当不健全(ダークサイド寄り)ですが…。ところで、ダークサイドを徹底的に排するジェダイという存在は、別の意味でかなり不健全ですよね。漂白されてしまうような別の不健全さを感じます。
断言・放言でとりま闇を追い払っても、全体主義という別の闇が訪れる na85