na85 のコメント

 『大東亜論』の武部小四郎の死に際して「武士とは、自らの死をコントロールできる人々のことである」と書かれていましたが、「なるほど!」と思いました。同じく『大東亜論』の、越智彦四郎の首だけあっかんべぇ死も、来島恒喜の大隈襲撃後の自決も、自らの死を完全にコントロールしていました。さらに言えば、古代から近世までの武士の切腹も大東亜戦争時の日本軍人・軍属の特攻死や自決も同様だと思います。このような死は顕彰して祀る人が多ければカミ様に成れる死だと思います。秀でた霊として祀られねばならない人々だと思います。
 自らの精神力をコントロールしつつ死の瞬間に意思の力でそれを極大に持っていくのが武士だとするなら、コントロールできない程の負のパワーが死の瞬間に極大になってしまったのが、菅原道真や早良天皇といった政治的な謀殺の末に怨霊化し、その後カミ様として祀られた人々でしす。これは畏怖のため祀られた人々でしょう。
 このような特殊ケース以外の死は、かつてなら村落共同体を見下ろす山に集まって子孫を見守る祖霊となったはずです。秋冬は山のカミ、春夏は田のカミとなる社稷のカミ様がこれに当たり、こちらは神社の摂末社に多い祖霊社として地元民が祀ったり、お盆には各家庭でお迎えして祀ったりするご先祖様です。
 しかし現在では、病院のベッドでの延命治療死や自宅での孤独死などがほとんどであり、これでは死を自らコントロールできるはずもなくカミ様に成れる経路は全て閉ざされ、死後は浮遊霊となって漂うケースばかりだと思われます。近代とは死にまつわる物語が全て失われ、死=無としか考えられなくなるから「生命至上主義」「命どぅ宝」となるのでしょう。
 そういえば、物語を復活させなければ実存のための殺人が増えると、よしりん先生は早い段階から喝破しておられました。それが最初の戦争論を描かれた動悸のひとつだったと思います。

 靖国に祀られたカミガミの物語を復活させる「卑怯者の島」が待ち遠しい na85

No.94 117ヶ月前

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