よしりん師範、時浦師範代、みなぼん編集長、スタッフの皆様、執筆・編集・配信、ありがとうございます。社会の不穏な動きとともに、度重なる爆弾低気圧の来襲などもあります折柄、どうぞ皆様ご自愛くださいませ。 今回のゴー宣も神回です。ありがとうございます。道場の第1部生放送で釈然としなかった岡田氏の道徳論の前提部分の間違いの指摘や、道徳A・道徳Bそれぞれの問題点、そして「いい人」・「悪い人」と「強者」・「弱者」の関係性と今次の総選挙結果とを相関させた分析が余りにも見事で、完全に腑に落ちてきました。『道徳論』の描き下ろし宣言もすでに楽しみで嬉しく思います。 さて、かつての庶民文化では弱者に寄り添う惻隠の情や、敗者を思いやる判官びいきが当たり前だったと思うのですが、いつ頃からか庶民の大衆化、そして大衆の劣化が急速に進み、ついには強者にすり寄って上手くお零れに与かるのがクレバーな行き方だぜ!となってしまいました。このようになった原因の一つは共同体崩壊で、もう一つは貧困化(と、それの誤魔化しのための右傾化)でしょうか。 まず、岡田氏の言う道徳Aとは、少年ジャンプ的な自己犠牲をも厭わない英雄的行為を描く物語に触れ、自分もかくありたいと思うようになることだと思われます。しかし、これはよしりん師範が仰るように、家族や地域といった共同体の中で先達から教わることが前提になっていないと難しいように思われます。 なぜなら、ある子供の属す共同体において目に見える形で不道徳が罷り通り、それを糺す大人もいなかった場合、たとえ物語で道徳Aに触れてそれが正しいことだと一応は認識したとしても、自分とは関係のない夢物語や都市伝説だと切り離すことを覚えてしまうように思います。つまり、共同体の大人が背中で示すことなくしては物語の効果など無効である可能性が高いわけです。このまま共同体の崩壊が進めば道徳Aの成立はますます困難になるでしょうし、その上マスコミからは共同体の外側の不道徳が連日これでもかと伝えられており、道徳Aの源泉となる良き物語よりはリアルに近そうに見えるこちらに影響されるように思います。 そして道徳Bとは、岡田氏は道徳Aを補完するものと捉えているようですが、これは崩壊した共同体に生きる子供たちが道徳Aの理想の追及を諦めてしまったとき、上から与えられる処世術だと考えられます。例えば、道徳Aの立場では、クラスでいじめられている子を助けるのが正しい行き方のはずですが、処世術としての道徳Bを覚えてしまった後では、クラスを支配している空気に逆らわず静観しているか、むしろ消極的にでも加担するのが正しいということになります。一体コレのどこが道徳なのか?と言いたくなります。当然、子供のイジメには不道徳な大人社会のイジメ体質が反映されています。 弱者=いい人、強者=悪い人という定義は、いい人になれば損をして弱者に落ち、悪い人になれば得をして強者になれるという不道徳な現代日本社会を端的に表しているように思われます。例えば「努力した人が報われる社会を目指す」と言いながら、強者の流す情報に乗っかって博打に勝つ以外に報われる方途が無いような社会をつくり、また大衆が道徳B(笑)=処世術によって不道徳な社会に過剰に適応することで強化されてきたように思います。そして票数が力に転化される政治家にあっては、最も人口の多い団塊世代の票を取りにいった方が得であり、そのためには若者や弱者を切り捨てる「悪い人」になる必要があるわけです。「弱者」に思いを寄せる「いい人」は、数の力を誇る団塊層から嫌われて敗れ去り、自らも「弱者」に落ちるわけです。 ちなみに団塊の世代とは、戦傷病死という死因の多くが消失したため爆発的に人口増加し、それによって消費(内需)が拡大して経済が活性化し、そのとき親の世代が保有していた資産も自然に価値が膨張し、また自分たちも希望を持って働けて年金もキッチリもらえる最後の世代であり、もっとも幸せな世代だったと言えます。にも拘らず将来世代がどれほど貧窮していようと自分たちの資産を守るのに都合の良さそうな現状維持の政権を望むという不道徳を為した「悪い人」ではないかと考えられます。 しかし、内外のグローバリストから搾取されている弱者=現役世代の一部までが政権中枢による洗脳にすっかり騙され、自分たちを更なる弱者に追い詰める政権を選んでしまったことは非常に残念です。政権が進めるグローバル経済は必然的に貧困化をもたらしますが、その不満のガス抜きのため画策されたのが右傾化トレンドでしょう。外に向かって強い姿勢を示すような「強者」の演出が小泉政治以前にはなかったため、それは新鮮さとして受け取られました。 しかし、所詮米国頼みの不自然なものであったため、それを見透かした周辺諸国からは侮蔑的な対応がさらに増え、米国からの保護の対価としての要求も増大し、国内の不満の内圧がさらに上昇するというマッチポンプ状態です。小泉政権では以前からあった米国からの要求通りに構造改革し(悪)、国民の不満のはけ口を外への強い姿勢(強)で逸らすとい両面作戦が採られました。 その小泉氏の二番煎じを狙った安倍政権は完全にメッキが剥がれていたはずなのですが、今次の総選挙では、若者の未来を奪ってでも団塊富裕層の利益だけは保守するという姿勢(悪・強)が奏功し、若者の未来を守りたい(良)と訴えた民主党は結局勝てず、党首の海江田氏は議席さえ失いました(弱)。これは、棄権も含めた不道徳な(悪)投票行動の結果であり、強者も弱者も含んでいるはずの有権者全体の劣化(悪・弱)が著しいからだと言えます。 では、良いことを行おうとしている「いい人」が絶望的なバンドワゴン選挙で勝つためにはどうすれば良いでしょうか。私は、悪い強者を叩き潰すほどの強者を演じるしかないと思います。日本の政治状況において常に最強にして最悪の存在は与党のバックに控える米国(連邦政府とグローバル企業)の意向でした。だから、民主党が安倍自民党に勝つためには共産党よりも反米側に振り切れて戦うしかなかったと考えます。これは単なる「いい人」には絶対に無理であり、強者を演じきる胆力があり、また偽悪的に振る舞っても支持されるキャラクターをも持ち合わせている必要があると思われます。もちろん、正しい認識に立って国民に希望を持たせる未来ビジョン(グローバル経済から距離を置く、脱原発事業など正しい目的にに公共投資を傾注、正しい少子化対策を施行、皇統の安定的継承のための女系公認etc.)を見せることも必要です。 「自ら省みて直くんば、千万人といえども吾往かん」と、死ぬ気で最強の存在に挑む姿を見せれば、それは少年ジャンプ的な道徳Aが、物語ならぬ現実世界に出現することであり、単なる消化試合になりがちな選挙戦の空気を一変させ、国内的な強弱(票数多=強者の団塊・票数少=弱者の若者)を超えた様相を見せると思うわけです。実現可能性という意味では、これはかなり難しいかと思いますが、最早これしか方法は無いのではないかと考えます。なぜ難しいかというと、そのような候補の出現を後押しする空気の醸成、つまり国民全体の共通了解がまだ足りないからです。TPP下で数年苦しんで、国の滅亡の危機と自分たちの命の危険まで感じないと醸成されないのかもしれませんが…。 戦後日本の言論界において上のような戦いがあったとすれば、それは戦後の空気を一変させたと言われる、よしりん先生の『戦争論』ではないかと思っています。もう一度空気を変えるべく出されるという『新戦争論1』には、このような期待をも抱かせてくれます。思えば「現実の物語化」が初期からのゴー宣の定義だったように思います。しかし「物語の現実化」ではありません。ゆえに、よしりん先生を推し続ける必要があります。ゴー宣読者が良き観客でいるためには、各々のリアルな現場や地盤が強固でなければなりません。私もこの間の騒動を機に、当板の状態に一喜一憂したりせず、再び自分の生業に力を傾注していきたいと思います。 政治を改めるには、道徳教育などより一身独立 na85
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よしりん師範、時浦師範代、みなぼん編集長、スタッフの皆様、執筆・編集・配信、ありがとうございます。社会の不穏な動きとともに、度重なる爆弾低気圧の来襲などもあります折柄、どうぞ皆様ご自愛くださいませ。
今回のゴー宣も神回です。ありがとうございます。道場の第1部生放送で釈然としなかった岡田氏の道徳論の前提部分の間違いの指摘や、道徳A・道徳Bそれぞれの問題点、そして「いい人」・「悪い人」と「強者」・「弱者」の関係性と今次の総選挙結果とを相関させた分析が余りにも見事で、完全に腑に落ちてきました。『道徳論』の描き下ろし宣言もすでに楽しみで嬉しく思います。
さて、かつての庶民文化では弱者に寄り添う惻隠の情や、敗者を思いやる判官びいきが当たり前だったと思うのですが、いつ頃からか庶民の大衆化、そして大衆の劣化が急速に進み、ついには強者にすり寄って上手くお零れに与かるのがクレバーな行き方だぜ!となってしまいました。このようになった原因の一つは共同体崩壊で、もう一つは貧困化(と、それの誤魔化しのための右傾化)でしょうか。
まず、岡田氏の言う道徳Aとは、少年ジャンプ的な自己犠牲をも厭わない英雄的行為を描く物語に触れ、自分もかくありたいと思うようになることだと思われます。しかし、これはよしりん師範が仰るように、家族や地域といった共同体の中で先達から教わることが前提になっていないと難しいように思われます。
なぜなら、ある子供の属す共同体において目に見える形で不道徳が罷り通り、それを糺す大人もいなかった場合、たとえ物語で道徳Aに触れてそれが正しいことだと一応は認識したとしても、自分とは関係のない夢物語や都市伝説だと切り離すことを覚えてしまうように思います。つまり、共同体の大人が背中で示すことなくしては物語の効果など無効である可能性が高いわけです。このまま共同体の崩壊が進めば道徳Aの成立はますます困難になるでしょうし、その上マスコミからは共同体の外側の不道徳が連日これでもかと伝えられており、道徳Aの源泉となる良き物語よりはリアルに近そうに見えるこちらに影響されるように思います。
そして道徳Bとは、岡田氏は道徳Aを補完するものと捉えているようですが、これは崩壊した共同体に生きる子供たちが道徳Aの理想の追及を諦めてしまったとき、上から与えられる処世術だと考えられます。例えば、道徳Aの立場では、クラスでいじめられている子を助けるのが正しい行き方のはずですが、処世術としての道徳Bを覚えてしまった後では、クラスを支配している空気に逆らわず静観しているか、むしろ消極的にでも加担するのが正しいということになります。一体コレのどこが道徳なのか?と言いたくなります。当然、子供のイジメには不道徳な大人社会のイジメ体質が反映されています。
弱者=いい人、強者=悪い人という定義は、いい人になれば損をして弱者に落ち、悪い人になれば得をして強者になれるという不道徳な現代日本社会を端的に表しているように思われます。例えば「努力した人が報われる社会を目指す」と言いながら、強者の流す情報に乗っかって博打に勝つ以外に報われる方途が無いような社会をつくり、また大衆が道徳B(笑)=処世術によって不道徳な社会に過剰に適応することで強化されてきたように思います。そして票数が力に転化される政治家にあっては、最も人口の多い団塊世代の票を取りにいった方が得であり、そのためには若者や弱者を切り捨てる「悪い人」になる必要があるわけです。「弱者」に思いを寄せる「いい人」は、数の力を誇る団塊層から嫌われて敗れ去り、自らも「弱者」に落ちるわけです。
ちなみに団塊の世代とは、戦傷病死という死因の多くが消失したため爆発的に人口増加し、それによって消費(内需)が拡大して経済が活性化し、そのとき親の世代が保有していた資産も自然に価値が膨張し、また自分たちも希望を持って働けて年金もキッチリもらえる最後の世代であり、もっとも幸せな世代だったと言えます。にも拘らず将来世代がどれほど貧窮していようと自分たちの資産を守るのに都合の良さそうな現状維持の政権を望むという不道徳を為した「悪い人」ではないかと考えられます。
しかし、内外のグローバリストから搾取されている弱者=現役世代の一部までが政権中枢による洗脳にすっかり騙され、自分たちを更なる弱者に追い詰める政権を選んでしまったことは非常に残念です。政権が進めるグローバル経済は必然的に貧困化をもたらしますが、その不満のガス抜きのため画策されたのが右傾化トレンドでしょう。外に向かって強い姿勢を示すような「強者」の演出が小泉政治以前にはなかったため、それは新鮮さとして受け取られました。
しかし、所詮米国頼みの不自然なものであったため、それを見透かした周辺諸国からは侮蔑的な対応がさらに増え、米国からの保護の対価としての要求も増大し、国内の不満の内圧がさらに上昇するというマッチポンプ状態です。小泉政権では以前からあった米国からの要求通りに構造改革し(悪)、国民の不満のはけ口を外への強い姿勢(強)で逸らすとい両面作戦が採られました。
その小泉氏の二番煎じを狙った安倍政権は完全にメッキが剥がれていたはずなのですが、今次の総選挙では、若者の未来を奪ってでも団塊富裕層の利益だけは保守するという姿勢(悪・強)が奏功し、若者の未来を守りたい(良)と訴えた民主党は結局勝てず、党首の海江田氏は議席さえ失いました(弱)。これは、棄権も含めた不道徳な(悪)投票行動の結果であり、強者も弱者も含んでいるはずの有権者全体の劣化(悪・弱)が著しいからだと言えます。
では、良いことを行おうとしている「いい人」が絶望的なバンドワゴン選挙で勝つためにはどうすれば良いでしょうか。私は、悪い強者を叩き潰すほどの強者を演じるしかないと思います。日本の政治状況において常に最強にして最悪の存在は与党のバックに控える米国(連邦政府とグローバル企業)の意向でした。だから、民主党が安倍自民党に勝つためには共産党よりも反米側に振り切れて戦うしかなかったと考えます。これは単なる「いい人」には絶対に無理であり、強者を演じきる胆力があり、また偽悪的に振る舞っても支持されるキャラクターをも持ち合わせている必要があると思われます。もちろん、正しい認識に立って国民に希望を持たせる未来ビジョン(グローバル経済から距離を置く、脱原発事業など正しい目的にに公共投資を傾注、正しい少子化対策を施行、皇統の安定的継承のための女系公認etc.)を見せることも必要です。
「自ら省みて直くんば、千万人といえども吾往かん」と、死ぬ気で最強の存在に挑む姿を見せれば、それは少年ジャンプ的な道徳Aが、物語ならぬ現実世界に出現することであり、単なる消化試合になりがちな選挙戦の空気を一変させ、国内的な強弱(票数多=強者の団塊・票数少=弱者の若者)を超えた様相を見せると思うわけです。実現可能性という意味では、これはかなり難しいかと思いますが、最早これしか方法は無いのではないかと考えます。なぜ難しいかというと、そのような候補の出現を後押しする空気の醸成、つまり国民全体の共通了解がまだ足りないからです。TPP下で数年苦しんで、国の滅亡の危機と自分たちの命の危険まで感じないと醸成されないのかもしれませんが…。
戦後日本の言論界において上のような戦いがあったとすれば、それは戦後の空気を一変させたと言われる、よしりん先生の『戦争論』ではないかと思っています。もう一度空気を変えるべく出されるという『新戦争論1』には、このような期待をも抱かせてくれます。思えば「現実の物語化」が初期からのゴー宣の定義だったように思います。しかし「物語の現実化」ではありません。ゆえに、よしりん先生を推し続ける必要があります。ゴー宣読者が良き観客でいるためには、各々のリアルな現場や地盤が強固でなければなりません。私もこの間の騒動を機に、当板の状態に一喜一憂したりせず、再び自分の生業に力を傾注していきたいと思います。
政治を改めるには、道徳教育などより一身独立 na85