僕がネットを見ていて感じていた違和感を、的確に分析・言語化していただいたように思います。 ニコニコ動画で流れる短いコメント一つとっても、文字列としては同じでも、それが自分のための「表出」なのか、他者のための「表現」なのかという違いはあるなと思いました。 その二つを隔てる一線には、真理を求める気持ちの他にも、「表出」などに身を任せて好き放題に振る舞っていたらバチをかぶる、という倫理観もありそうです。 そういうことは家族や友達、恋人への接し方、公を考える時など、人として活動すること全てに当てはまると思います。 また、いくら「自分は自制できている」と思っていても、獣の面へ引っ張る力は、重力のように常に働いています(「恥」が働かないネットでは特に)。 最初は誰かに届けるために「表現」をしてしたのに、いつの間にか「表出」になっていたケースはいくつも見てきました。言論に限らず、成功して独りよがりな作品しか作れなくなってしまうクリエイターもそういうことなのかもしれません。 僕もそうなっていたり、あるいは「表現」まで達していなかったりすることもあるかも知れませんが、自分で考えて決めるということを捨てたくありません。 ひとまずはコメント欄に限らず、他人の「表出」は、今後は論理的裏付けをもって無視することにします。
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小林よしのりチャンネル
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僕がネットを見ていて感じていた違和感を、的確に分析・言語化していただいたように思います。
ニコニコ動画で流れる短いコメント一つとっても、文字列としては同じでも、それが自分のための「表出」なのか、他者のための「表現」なのかという違いはあるなと思いました。
その二つを隔てる一線には、真理を求める気持ちの他にも、「表出」などに身を任せて好き放題に振る舞っていたらバチをかぶる、という倫理観もありそうです。
そういうことは家族や友達、恋人への接し方、公を考える時など、人として活動すること全てに当てはまると思います。
また、いくら「自分は自制できている」と思っていても、獣の面へ引っ張る力は、重力のように常に働いています(「恥」が働かないネットでは特に)。
最初は誰かに届けるために「表現」をしてしたのに、いつの間にか「表出」になっていたケースはいくつも見てきました。言論に限らず、成功して独りよがりな作品しか作れなくなってしまうクリエイターもそういうことなのかもしれません。
僕もそうなっていたり、あるいは「表現」まで達していなかったりすることもあるかも知れませんが、自分で考えて決めるということを捨てたくありません。
ひとまずはコメント欄に限らず、他人の「表出」は、今後は論理的裏付けをもって無視することにします。