はっきり言いますが、今回のゴジラ(以下ギャレゴジ)は平成ゴジラ(84~95年)のそれと比べて反核のメッセージ性は遥かに劣ります。 むしろ核を肯定すらしています。 まず、日本のゴジラは54年の初代は「核実験の影響で目を覚ました古代の生物」という設定でしたが、84年の新生版からは「現代に生き残っていた恐竜が放射能を浴びて突然変異した怪獣」という設定に変わっています。 30年の間に放射能が生物の遺伝子を傷つけて奇形化を引き起こすということが一般に知られるようになったためでしょう。ゴジラの誕生についてより人類の責任を強くした改変といえます。(明確にその描写があったのは92年のVSキングギドラですが) さて、今回のギャレゴジは日本の平成版のように核実験や核のゴミによる影響で突然変異した悲劇の怪物ではなく、初代と同じく古生代にいた神様的動物が人類が生んだ核エネルギー(エサ)に釣られて地上に出てきたという設定です。 また、ムートーもその点は同じです。 要するに生存競争における競合者だからゴジラはムートーを執拗に追跡して駆逐したのです。ムートーはゴジラの別個体に卵を産み付けてエサとしていたくらいですから、ゴジラの天敵ともいえますし。 というか、ムートーは核を食うことで周辺環境への汚染を抑えはしても、汚すことなどしていません。 要するに、ある特定の生物種(ギャレゴジ)が別の生物種(MUTO)を攻撃することがたまたま人類にとって有益だったから、自然のバランスだなんだとテキトーなことぬかして英雄視してるだけです。(ある意味、人間の身勝手さへの皮肉とも取れます) 核の肯定ともとれる部分についてですが、というかなぜこれに小林よしのりが怒り狂わないのか理解できないのですが、ギャレゴジという映画は、日本人含む大勢の人々を殺し、また未だに苦しめているビキニ環礁の核実験を「怪獣への仕方ない攻撃」として正当化してしまいました。 核実験がゴジラを生んだのでなく、ゴジラが出てきたから核実験したという最低の言い訳にすり替えたのです。 順序が逆だろと。 ゴジラ誕生の責任をフランスの核実験(ポリネシア)に押し付けた98年のエメゴジも卑劣でしたが、今回のは更に悪質です。 米国としてはやむをえない攻撃をしただけで、それが結果的に逆効果になろうとも、米国の道徳的責任は問われないのです。 「核ならなんとかなる」という進歩主義に対する漠然としたアンチメッセージにはなっても、アンチ米国には一切なりえません。 そして、劇中の米軍は現代の核兵器を始めとした軍事力をろくに使っていません。予算の関係もあったのでしょうが、EMPだなんだと言い訳して怪獣に全兵力をぶつけることを避けたのです。 日本のゴジラの正当なる継承を標榜する以上、ギャレゴジが倒されることは許されず、しかしフィクションとはいえ米軍をケチョンケチョンに描くこともまた許されず、といった風に見えました。 あらゆる通常兵器にBC兵器に核兵器まで、現実にあるもの全てをぶつけてもゴジラという自然の猛威にはまるで歯が立たない、という無力感は今の米国民には耐えられないんでしょうね。 個人的には、現代の核兵器をくらっても平然と耐えたゴジラが逆にその放射能を吸収して、そこで初めて熱線を吐きだしてより大きな脅威となる、という演出だったら最高に皮肉が利いててよかったかなと思います。 もちろん日本人は米国ざまあみろという気分で見られるでしょう。 最後に… 「もしも人類が自然を破壊すれば、ゴジラはいつでも人類の敵になることを示唆しているわけだ。」という認識は間違っていると思います。 劇中で解説されたように、ゴジラやムートーは人類が地上を放射能で汚染したことを喜んで地上に出てきたのです。 破壊され汚染され尽くした環境こそが彼らにとっては理想郷なのです。 (以下妄想です) 一旦活動を再開したゴジラはあのあと当然エネルギーを必要とするでしょうから、最初にムートーがそうしたように核のニオイのする方に向かうはずです。 ゴジラは英雄だった!という締め括りのあとのエンドロール明けに、今度はゴジラが米国の原発を襲うという絶望的な映像があればホントのホントに最高でした。米国ざまあみろでした。 平成ガメラとは違い、ゴジラは荒ぶるカミであるとともに人類の写し身であり、その存在はアンチ自然環境であり、人類の業を最大限に体現する存在なのです。
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はっきり言いますが、今回のゴジラ(以下ギャレゴジ)は平成ゴジラ(84~95年)のそれと比べて反核のメッセージ性は遥かに劣ります。
むしろ核を肯定すらしています。
まず、日本のゴジラは54年の初代は「核実験の影響で目を覚ました古代の生物」という設定でしたが、84年の新生版からは「現代に生き残っていた恐竜が放射能を浴びて突然変異した怪獣」という設定に変わっています。
30年の間に放射能が生物の遺伝子を傷つけて奇形化を引き起こすということが一般に知られるようになったためでしょう。ゴジラの誕生についてより人類の責任を強くした改変といえます。(明確にその描写があったのは92年のVSキングギドラですが)
さて、今回のギャレゴジは日本の平成版のように核実験や核のゴミによる影響で突然変異した悲劇の怪物ではなく、初代と同じく古生代にいた神様的動物が人類が生んだ核エネルギー(エサ)に釣られて地上に出てきたという設定です。
また、ムートーもその点は同じです。
要するに生存競争における競合者だからゴジラはムートーを執拗に追跡して駆逐したのです。ムートーはゴジラの別個体に卵を産み付けてエサとしていたくらいですから、ゴジラの天敵ともいえますし。
というか、ムートーは核を食うことで周辺環境への汚染を抑えはしても、汚すことなどしていません。
要するに、ある特定の生物種(ギャレゴジ)が別の生物種(MUTO)を攻撃することがたまたま人類にとって有益だったから、自然のバランスだなんだとテキトーなことぬかして英雄視してるだけです。(ある意味、人間の身勝手さへの皮肉とも取れます)
核の肯定ともとれる部分についてですが、というかなぜこれに小林よしのりが怒り狂わないのか理解できないのですが、ギャレゴジという映画は、日本人含む大勢の人々を殺し、また未だに苦しめているビキニ環礁の核実験を「怪獣への仕方ない攻撃」として正当化してしまいました。
核実験がゴジラを生んだのでなく、ゴジラが出てきたから核実験したという最低の言い訳にすり替えたのです。
順序が逆だろと。
ゴジラ誕生の責任をフランスの核実験(ポリネシア)に押し付けた98年のエメゴジも卑劣でしたが、今回のは更に悪質です。
米国としてはやむをえない攻撃をしただけで、それが結果的に逆効果になろうとも、米国の道徳的責任は問われないのです。
「核ならなんとかなる」という進歩主義に対する漠然としたアンチメッセージにはなっても、アンチ米国には一切なりえません。
そして、劇中の米軍は現代の核兵器を始めとした軍事力をろくに使っていません。予算の関係もあったのでしょうが、EMPだなんだと言い訳して怪獣に全兵力をぶつけることを避けたのです。
日本のゴジラの正当なる継承を標榜する以上、ギャレゴジが倒されることは許されず、しかしフィクションとはいえ米軍をケチョンケチョンに描くこともまた許されず、といった風に見えました。
あらゆる通常兵器にBC兵器に核兵器まで、現実にあるもの全てをぶつけてもゴジラという自然の猛威にはまるで歯が立たない、という無力感は今の米国民には耐えられないんでしょうね。
個人的には、現代の核兵器をくらっても平然と耐えたゴジラが逆にその放射能を吸収して、そこで初めて熱線を吐きだしてより大きな脅威となる、という演出だったら最高に皮肉が利いててよかったかなと思います。
もちろん日本人は米国ざまあみろという気分で見られるでしょう。
最後に…
「もしも人類が自然を破壊すれば、ゴジラはいつでも人類の敵になることを示唆しているわけだ。」という認識は間違っていると思います。
劇中で解説されたように、ゴジラやムートーは人類が地上を放射能で汚染したことを喜んで地上に出てきたのです。
破壊され汚染され尽くした環境こそが彼らにとっては理想郷なのです。
(以下妄想です)
一旦活動を再開したゴジラはあのあと当然エネルギーを必要とするでしょうから、最初にムートーがそうしたように核のニオイのする方に向かうはずです。
ゴジラは英雄だった!という締め括りのあとのエンドロール明けに、今度はゴジラが米国の原発を襲うという絶望的な映像があればホントのホントに最高でした。米国ざまあみろでした。
平成ガメラとは違い、ゴジラは荒ぶるカミであるとともに人類の写し身であり、その存在はアンチ自然環境であり、人類の業を最大限に体現する存在なのです。