道場がいよいよ差し迫った今週の配信お疲れ様です。 まず、ゴジラが肥っているとのことですが、ゴジラは年代が経過するにつれて巨大化し、重量も増しています。初代が身長50mという設定でしたが30年後の昭和59年には80m、平成3年には100mと巨大化しながら今に至るわけであって、決して急激に肥ったというわけではないわけです。これは年々人間が作る建造物が巨大になり、高層ビルが立ち並ぶ都心部でゴジラが暴れてもゴジラが小さく、軽く見えてしまい、重量感を感じさせることが難しいからなのだそうです。よって、ゴジラが肥った理由はゴジラが眠っていたからではなく、人間の欲望が近代化によって肥大化したことによってゴジラも巨大化しているというのがことの真相なのです。 「ザ・神様」でニニギノミコトが気の毒になってきましたが、更なる気の毒な事態が訪れるのですね。これは真の女神の恐ろしさを知るいい機会になるので楽しみにしています。とはいえ、現在だったら一度受け入れた女性は絶対に受け入れなければならないと思うのですが、「ザ・神様」ではこんな我儘が許されるのか?と思いますがやっぱり神にも因果応報という結末が待っているのでしょうか。 佐世保市での少女殺人遺体解体事件はまさに生んだ親は勿論のこと、周囲の大人でも事前に止めることが難しい事件であり、今回の事件はいかなる教育でも事前に止めることは不可能であったと言っていい事件だと思いました。それにしても、殺人事件が起きたからと言って、命の大切さを教えたところで、年がら年中、猟奇殺人を含む殺人事件や紛争を報じる報道が毎日のように朝や夕方の報道番組や新聞で報じられ、さらには身近な場所では保健所などでは無数の猫や犬が毎日のように殺されているのですから、命の大切さを教えた所で現実の世界では命がまったく大切にされていない情報が嫌というほど入ってくるのですからまともな感覚を持てば命の大切さを教える教育を真面目に受けとろうとしても不可能です。 今回は精神科医が適切な判断を下していたにも関わらず、親の保身が生じたことによる猟奇事件ともいえますが、このような猟奇殺人者に遭遇してしまった被害者の気持ちを想うとやり切れないと思いました。今回のライジングで佐世保市少女殺人事件の詳細を読んで真っ先に思い浮かべたのが 開成高校生殺害事件 http://yabusaka.moo.jp/kaisei.htm と 浦和・高校教師夫妻による息子刺殺事件 http://yabusaka.moo.jp/urawamusuko.htm です。この二つの事件は両親が息子を殺害するという事件ですが、もし、これらの子がこのまま生きていたら佐世保市少女殺害事件のような惨劇もあり得たのではないのかと考えるようになりました。これらの事件では殺害された子に対して精神科医は親が隔離しても断っているか、あるいは重度の精神病という診断を下しています。加害者の親がこの事件について知っていたかは知りませんが、娘を殺すか、隔離しなければならないほどの重度の精神病と診断された場合でも、その診断が万に一つ治療した後の将来性と自分の面子のためにあえて、隔離しなかったのではと考えました。 親の中には自分の保身と憂さ晴らしのために異常もない実の子を精神病に仕立て上げる場合も多く、たとえば、親が仕事が見つからなかったり、あるいは莫大な借金を作ってしまったりして失態を生じさせてしまった場合など、世間体に顔向けできない失態が生じてしまった場合、その自分の失態の目を逸らさせるために他人のせいにする場合があり、この時には父親、あるいは母親が特に相手の妻、または夫の自分に対する失態を責められるのを恐れてあえて、子供に注目させるように子供を精神異常扱いし、その責任を自分を責める相手に着せて自分の失態を隠そうとすることがあり、精神科医もこのような親の相手をしなければならず、時には診察を拒否することもあるそうです。このために精神科医への通院を度々繰り返したりすると世間体では子供だけではなく、親にも風当たりが強くなる場合があり、その覚悟も時には必要となるほど精神科医への通院は覚悟が必要となります。 加害者の親に弁護のしようがありませんし、加害者本人はむしろ、死刑にしたほうがいいのではと思えてならない人格の持ち主でもありますが、このような苦しい中で常識外れの来院者も数多く訪れたであろう精神科医は頑張れるところまで頑張ったと思います。 命の尊さは命の終焉があるからこそ尊いのであって、命の終焉である死についても同じくらいかあるいはそれ以上に考え教える必要があるのであって、命の終焉は国や地域、民族、宗教によってその思想、思考は様々であることから結局は郷土文化を始めとする國柄を継続させて、教育など様々な機会から学んで身に着けていくことこそが真の命の尊さを知ることとなるのです。命は大切にしなければならない場合、命のあり方と同じく、死についての大切さも認識しなければならず、この「命の大切」という命の大切さだけを教えて死について教えない教育も自虐史観や極右愛国教育と同じくらいに偏った思想であり、偏った教育なのです。よって、偏った教育があらぬ問題を起こすことから、結局は「命の大切」を教える教育もあらぬ結果をもたらすだけで何の意味もないまったくの無駄な時間であるのです。 教育と思想、思考は常に平衡を保たなければならず、そのために熟考が必要なのです。
チャンネルに入会
フォロー
小林よしのりチャンネル
(ID:6933238)
道場がいよいよ差し迫った今週の配信お疲れ様です。
まず、ゴジラが肥っているとのことですが、ゴジラは年代が経過するにつれて巨大化し、重量も増しています。初代が身長50mという設定でしたが30年後の昭和59年には80m、平成3年には100mと巨大化しながら今に至るわけであって、決して急激に肥ったというわけではないわけです。これは年々人間が作る建造物が巨大になり、高層ビルが立ち並ぶ都心部でゴジラが暴れてもゴジラが小さく、軽く見えてしまい、重量感を感じさせることが難しいからなのだそうです。よって、ゴジラが肥った理由はゴジラが眠っていたからではなく、人間の欲望が近代化によって肥大化したことによってゴジラも巨大化しているというのがことの真相なのです。
「ザ・神様」でニニギノミコトが気の毒になってきましたが、更なる気の毒な事態が訪れるのですね。これは真の女神の恐ろしさを知るいい機会になるので楽しみにしています。とはいえ、現在だったら一度受け入れた女性は絶対に受け入れなければならないと思うのですが、「ザ・神様」ではこんな我儘が許されるのか?と思いますがやっぱり神にも因果応報という結末が待っているのでしょうか。
佐世保市での少女殺人遺体解体事件はまさに生んだ親は勿論のこと、周囲の大人でも事前に止めることが難しい事件であり、今回の事件はいかなる教育でも事前に止めることは不可能であったと言っていい事件だと思いました。それにしても、殺人事件が起きたからと言って、命の大切さを教えたところで、年がら年中、猟奇殺人を含む殺人事件や紛争を報じる報道が毎日のように朝や夕方の報道番組や新聞で報じられ、さらには身近な場所では保健所などでは無数の猫や犬が毎日のように殺されているのですから、命の大切さを教えた所で現実の世界では命がまったく大切にされていない情報が嫌というほど入ってくるのですからまともな感覚を持てば命の大切さを教える教育を真面目に受けとろうとしても不可能です。
今回は精神科医が適切な判断を下していたにも関わらず、親の保身が生じたことによる猟奇事件ともいえますが、このような猟奇殺人者に遭遇してしまった被害者の気持ちを想うとやり切れないと思いました。今回のライジングで佐世保市少女殺人事件の詳細を読んで真っ先に思い浮かべたのが
開成高校生殺害事件
http://yabusaka.moo.jp/kaisei.htm
と
浦和・高校教師夫妻による息子刺殺事件
http://yabusaka.moo.jp/urawamusuko.htm
です。この二つの事件は両親が息子を殺害するという事件ですが、もし、これらの子がこのまま生きていたら佐世保市少女殺害事件のような惨劇もあり得たのではないのかと考えるようになりました。これらの事件では殺害された子に対して精神科医は親が隔離しても断っているか、あるいは重度の精神病という診断を下しています。加害者の親がこの事件について知っていたかは知りませんが、娘を殺すか、隔離しなければならないほどの重度の精神病と診断された場合でも、その診断が万に一つ治療した後の将来性と自分の面子のためにあえて、隔離しなかったのではと考えました。
親の中には自分の保身と憂さ晴らしのために異常もない実の子を精神病に仕立て上げる場合も多く、たとえば、親が仕事が見つからなかったり、あるいは莫大な借金を作ってしまったりして失態を生じさせてしまった場合など、世間体に顔向けできない失態が生じてしまった場合、その自分の失態の目を逸らさせるために他人のせいにする場合があり、この時には父親、あるいは母親が特に相手の妻、または夫の自分に対する失態を責められるのを恐れてあえて、子供に注目させるように子供を精神異常扱いし、その責任を自分を責める相手に着せて自分の失態を隠そうとすることがあり、精神科医もこのような親の相手をしなければならず、時には診察を拒否することもあるそうです。このために精神科医への通院を度々繰り返したりすると世間体では子供だけではなく、親にも風当たりが強くなる場合があり、その覚悟も時には必要となるほど精神科医への通院は覚悟が必要となります。
加害者の親に弁護のしようがありませんし、加害者本人はむしろ、死刑にしたほうがいいのではと思えてならない人格の持ち主でもありますが、このような苦しい中で常識外れの来院者も数多く訪れたであろう精神科医は頑張れるところまで頑張ったと思います。
命の尊さは命の終焉があるからこそ尊いのであって、命の終焉である死についても同じくらいかあるいはそれ以上に考え教える必要があるのであって、命の終焉は国や地域、民族、宗教によってその思想、思考は様々であることから結局は郷土文化を始めとする國柄を継続させて、教育など様々な機会から学んで身に着けていくことこそが真の命の尊さを知ることとなるのです。命は大切にしなければならない場合、命のあり方と同じく、死についての大切さも認識しなければならず、この「命の大切」という命の大切さだけを教えて死について教えない教育も自虐史観や極右愛国教育と同じくらいに偏った思想であり、偏った教育なのです。よって、偏った教育があらぬ問題を起こすことから、結局は「命の大切」を教える教育もあらぬ結果をもたらすだけで何の意味もないまったくの無駄な時間であるのです。
教育と思想、思考は常に平衡を保たなければならず、そのために熟考が必要なのです。