号泣議員といい、ヤジ議員と言い、うちの母がまず、これら議員の振る舞いについていった言葉が「重みがまるで感じず、故に品行方正にも欠け、品がない」というものでした。 戦前戦中の議員の写真を見ても、演説を聞いても確かに、議員としての想い業務を背負っているという態度が伝わってきますし、選ぶ言葉にも重みがあります。写っている写真や映像でも同じですし、選挙で選ばれた議員としての品行方正も整っていますし、気品に満ちています。 現在の議員を見ていますと、議員としての重みが大半の場合、まるで感じられないのです。これは安倍氏からして同じで、言葉が物凄く軽く感じてしまうのです。故にいくら過激な内容を述べても中身のない、期待も全く持てずにくだらない嘘話にしか聞こえないのです。 都議会におけるヤジについてもネトウヨは「田島陽子だって明治天皇の玄孫(注:偽皇族詐欺師の竹田)に『早く結婚しろ』って言ったじゃないか!」とほざいていましたが、この発言はあくまでもお笑い番組での発言で議会での発言ではありません。 号泣議員やヤジ議員が誕生した背景には民放を中心とする報道機関が議会を含む政治に関する報道を含む報道全てをお笑い番組と同列に扱ってきところにあると思うのです。近年は笑いと歓喜に飢えた人々が老若男女問わず異常に多くみられるようになりました。なにか、繊細なことに対しても狂ったように笑うか、狂喜する人が異様に多いのです。歓喜に飢えた人々が異様に多いことは渋谷のワールドカップ観戦者の態度が証明していましたし、笑いの植えた人々が多いことはネットで「痛いニュース」が流行り、報道機関の多くがお笑い番組に類似してきたことによって証明されていると思います。このような人々が増えれば報道機関もあらゆる報道を部数や視聴率を少しでも伸ばしたいがためにお笑い番組や記事に近づけることが多くなり、その結果、笑いや歓喜に飢えた講読者や視聴者が地味な国会放映と比較して多く見て、さらにはこのような報道機関に取り上げられるか、取り上げられそうな議員を支援することから、結果として品行方正に欠ける品のない、軽い議員が当選してしまうわけです。 ヤジ議員や号泣議員が誕生する背景には歓喜や笑いを発散させてきた各地域における伝統行事を含む共同体の損失が根底的な原因があるのだと思います。なぜなら、歓喜や笑いは通常、祭などの地元の伝統行事と伝統行事や地域における業務において発散されて改称されるものだからです。たとえば、東京の下町では毎年から3年に一回という回数の中で神輿を担ぐ祭が開催されます。この多数が参加する神輿を真夏の炎天下の中で担ぐ、あるいは支援という形で参加することによって神輿を担ぐ者も支援するものもその空気の中で歓喜と笑いを発散させるわけです。これは神輿に限った話ではなく、通常の日常においても何らかの儀式や行事が事細かくあり、その中で神輿と同じように歓喜と笑いを発散させることによって渋谷の街頭で観戦して狂喜することをわざわざしなくてもいいわけです。これは地方における農作業や行事においても同じです。しかし、これら行事を始めとする共同体が崩壊し、笑いと歓喜を発散する場所が極限までになくなってしまい、砂粒となった個人が笑いと歓喜に飢えて笑いや狂喜をしたいばかりにネットやお笑いやそれに類似した報道機関を見ては、これら報道機関やネットで取り上げられたか、取り上げられそうな議員を選挙で選んでしまうというわけです。 品行方正に欠ける、重みを実感していない議員が選ばれている現状では生き残れるかどうかも怪しいもので、グローバルに参加しようものならば即座にグローバル企業に浸食されてかつての帝国主義時代の植民地と同じ状態になってしまうでしょう。國作に真剣に取り組める議員を送りだし、混沌とした世界の中で安定した社会を作り上げて生き残っていくにはまず、歓喜と笑いに飢えることの内容に伝統行事を含む行事を健全に再建し、運用できる共同体の創造が今後の最も重要な課題となるでしょう。
チャンネルに入会
フォロー
小林よしのりチャンネル
(ID:6933238)
号泣議員といい、ヤジ議員と言い、うちの母がまず、これら議員の振る舞いについていった言葉が「重みがまるで感じず、故に品行方正にも欠け、品がない」というものでした。
戦前戦中の議員の写真を見ても、演説を聞いても確かに、議員としての想い業務を背負っているという態度が伝わってきますし、選ぶ言葉にも重みがあります。写っている写真や映像でも同じですし、選挙で選ばれた議員としての品行方正も整っていますし、気品に満ちています。
現在の議員を見ていますと、議員としての重みが大半の場合、まるで感じられないのです。これは安倍氏からして同じで、言葉が物凄く軽く感じてしまうのです。故にいくら過激な内容を述べても中身のない、期待も全く持てずにくだらない嘘話にしか聞こえないのです。
都議会におけるヤジについてもネトウヨは「田島陽子だって明治天皇の玄孫(注:偽皇族詐欺師の竹田)に『早く結婚しろ』って言ったじゃないか!」とほざいていましたが、この発言はあくまでもお笑い番組での発言で議会での発言ではありません。
号泣議員やヤジ議員が誕生した背景には民放を中心とする報道機関が議会を含む政治に関する報道を含む報道全てをお笑い番組と同列に扱ってきところにあると思うのです。近年は笑いと歓喜に飢えた人々が老若男女問わず異常に多くみられるようになりました。なにか、繊細なことに対しても狂ったように笑うか、狂喜する人が異様に多いのです。歓喜に飢えた人々が異様に多いことは渋谷のワールドカップ観戦者の態度が証明していましたし、笑いの植えた人々が多いことはネットで「痛いニュース」が流行り、報道機関の多くがお笑い番組に類似してきたことによって証明されていると思います。このような人々が増えれば報道機関もあらゆる報道を部数や視聴率を少しでも伸ばしたいがためにお笑い番組や記事に近づけることが多くなり、その結果、笑いや歓喜に飢えた講読者や視聴者が地味な国会放映と比較して多く見て、さらにはこのような報道機関に取り上げられるか、取り上げられそうな議員を支援することから、結果として品行方正に欠ける品のない、軽い議員が当選してしまうわけです。
ヤジ議員や号泣議員が誕生する背景には歓喜や笑いを発散させてきた各地域における伝統行事を含む共同体の損失が根底的な原因があるのだと思います。なぜなら、歓喜や笑いは通常、祭などの地元の伝統行事と伝統行事や地域における業務において発散されて改称されるものだからです。たとえば、東京の下町では毎年から3年に一回という回数の中で神輿を担ぐ祭が開催されます。この多数が参加する神輿を真夏の炎天下の中で担ぐ、あるいは支援という形で参加することによって神輿を担ぐ者も支援するものもその空気の中で歓喜と笑いを発散させるわけです。これは神輿に限った話ではなく、通常の日常においても何らかの儀式や行事が事細かくあり、その中で神輿と同じように歓喜と笑いを発散させることによって渋谷の街頭で観戦して狂喜することをわざわざしなくてもいいわけです。これは地方における農作業や行事においても同じです。しかし、これら行事を始めとする共同体が崩壊し、笑いと歓喜を発散する場所が極限までになくなってしまい、砂粒となった個人が笑いと歓喜に飢えて笑いや狂喜をしたいばかりにネットやお笑いやそれに類似した報道機関を見ては、これら報道機関やネットで取り上げられたか、取り上げられそうな議員を選挙で選んでしまうというわけです。
品行方正に欠ける、重みを実感していない議員が選ばれている現状では生き残れるかどうかも怪しいもので、グローバルに参加しようものならば即座にグローバル企業に浸食されてかつての帝国主義時代の植民地と同じ状態になってしまうでしょう。國作に真剣に取り組める議員を送りだし、混沌とした世界の中で安定した社会を作り上げて生き残っていくにはまず、歓喜と笑いに飢えることの内容に伝統行事を含む行事を健全に再建し、運用できる共同体の創造が今後の最も重要な課題となるでしょう。