ジャックダニエルをくんくんに飲んで程良く酩酊しながらiPhoneで道場動画を拝見し、泥酔状態で頭脳を回転させ、混濁した意識の中で思考を巡らせました。 動画を観ていて、職場の同僚のことが頭にぷかぷか浮かびました。 妻子持ちの気の良い元ヤン風作業員の彼。 ちゃんとした家庭を築き、特段に不自由もなく、真面目に働いている生活者の彼。 そんな彼が一年ほど前に自宅にインターネットを繋げてからこっち、それまでまったく話題にすることも無かったような社会問題について話をするようになりましてん。 以前は石狩湾新港でのドリフト走行自慢やパチスロ必勝法みたいな話しかしなかったのに、今ではたかじんのそこまで言って委員会みたいな番組までチェックするようになる有り様。 更に「あの企業は在日関連らしいからタチが悪い」とか「あの有名人は在日らしい」などと言い出すようになり、俺が「何ダセェこと言ってんの。くだらねぇ」と返すと、「ネット検索すりゃ分かる。面白ぇからYouTubeを観てみ」と、しきりに勧めてくる始末。 彼と話していて思ったのはとにかく暇を持て余しているということ。 労働後に帰宅しても、掃除や洗濯は全自動だし、炊事は炊飯器と電子レンジが賄ってくれる。 だから帰宅してすぐにインターネットに向き合って、ネットニュースやらYouTubeやらを妻子と一緒に観るらしい。 素敵な家族団欒の風景が目に浮かぶ。 こうして普通の生活者が、さして意味もなく背景もなく意思もなく、うっすらとレイシズムに染まり、排外デモを許容する空気を作っているのかもしれません。 そんな空気の中で俺がレイシストにならないのは何故だらう。 どうしてだらう。 目的意識もなくダラダラと生活しているのは同じなのに、彼と俺との違いってなんだらう。 読みたい本が多すぎるとか、観たい映画が多すぎるとか、来週末は篠山紀信の写真展に行かねばならねぇし、町内で雪解けあとの清掃があるやんけじゃん、超うぜぇけど参加せんければならんべやとか言って、無理矢理にでも多忙に身を置き、実生活の中に興味があるものを見つけて、暇を作らずに腹を振り尻を振って踊るような浮かれた阿呆になることに意義を見出せるか否かの違いだらうか? 浮かれた馬鹿になれず、憂き世に沈んでしまった人が、暇を持て余して腐ると、どろどろのヘドロのような感情を噴出させちゃうのかしらん。 あえて佯狂になって憂き世を浮き世に転化するという江戸時代的な人生観でもって日常を遊ぶという余裕があれば、排外デモで憂さ晴らしをする真性の馬鹿、真性の狂人にならずに済むのにな。 そんな単純な話じゃねぇか。 もっと思考せんければあかぬ。 サルサを踊るお猿の脳髄が頭蓋に装填されている俺であるけれども考え続け、転がり続けることが大切な筈だものね。 大切ですものね。 ついタメ口の文章を書いてしまうのも改めねばならんもんね。 ならないですものね。 敬語、むずい。 かつてゴー宣で、中韓の反日ナショナリズムについて、『日本人は、大人ぶって、「まあまあ、そんなにむきにならずともそのくらい譲っておけ」と言ってしまう。』『相手の言うなりにしておいてやれと、大人ぶるのが良識だと思っている。それが、実は恐ろしい陥穽なんだな。』と書かれていましたが、まさに今それは排外デモをやっている連中に当てはまる言葉だと思いました。 あんな馬鹿どもには大した力もないんだから放っておくのが良識ある態度なんだと寛大なポーズで余裕ぶっこいていたら、とんでもないケダモノの群れを野放しにしている野蛮な国だと国際社会に認識されてしまう。 やはりゴー宣は過去の作品も何度も読み返し、その時々の時勢に合わせて意味を汲み取るべき。 ゴー宣『戦争論』がネトウヨを生み出したのだから、その責任を小林先生は取らねばならねぇ。 てな事を言う人々って、『時計じかけのオレンジ』に影響を受けた少年たちが「雨に唄えば」を口づさみながら強姦するという事件を起こしたことに対してキューブリックに責任があると抗議をした良識派について、どう思っているのだろう。 その結果、『時計じかけのオレンジ』がイギリス国内でおよそ20年間、封印映画になっていたことをどう思っているのだろう。 『戦争論』も封印作品にすべきだと考えているのだろうか。
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ジャックダニエルをくんくんに飲んで程良く酩酊しながらiPhoneで道場動画を拝見し、泥酔状態で頭脳を回転させ、混濁した意識の中で思考を巡らせました。
動画を観ていて、職場の同僚のことが頭にぷかぷか浮かびました。
妻子持ちの気の良い元ヤン風作業員の彼。
ちゃんとした家庭を築き、特段に不自由もなく、真面目に働いている生活者の彼。
そんな彼が一年ほど前に自宅にインターネットを繋げてからこっち、それまでまったく話題にすることも無かったような社会問題について話をするようになりましてん。
以前は石狩湾新港でのドリフト走行自慢やパチスロ必勝法みたいな話しかしなかったのに、今ではたかじんのそこまで言って委員会みたいな番組までチェックするようになる有り様。
更に「あの企業は在日関連らしいからタチが悪い」とか「あの有名人は在日らしい」などと言い出すようになり、俺が「何ダセェこと言ってんの。くだらねぇ」と返すと、「ネット検索すりゃ分かる。面白ぇからYouTubeを観てみ」と、しきりに勧めてくる始末。
彼と話していて思ったのはとにかく暇を持て余しているということ。
労働後に帰宅しても、掃除や洗濯は全自動だし、炊事は炊飯器と電子レンジが賄ってくれる。
だから帰宅してすぐにインターネットに向き合って、ネットニュースやらYouTubeやらを妻子と一緒に観るらしい。
素敵な家族団欒の風景が目に浮かぶ。
こうして普通の生活者が、さして意味もなく背景もなく意思もなく、うっすらとレイシズムに染まり、排外デモを許容する空気を作っているのかもしれません。
そんな空気の中で俺がレイシストにならないのは何故だらう。
どうしてだらう。
目的意識もなくダラダラと生活しているのは同じなのに、彼と俺との違いってなんだらう。
読みたい本が多すぎるとか、観たい映画が多すぎるとか、来週末は篠山紀信の写真展に行かねばならねぇし、町内で雪解けあとの清掃があるやんけじゃん、超うぜぇけど参加せんければならんべやとか言って、無理矢理にでも多忙に身を置き、実生活の中に興味があるものを見つけて、暇を作らずに腹を振り尻を振って踊るような浮かれた阿呆になることに意義を見出せるか否かの違いだらうか?
浮かれた馬鹿になれず、憂き世に沈んでしまった人が、暇を持て余して腐ると、どろどろのヘドロのような感情を噴出させちゃうのかしらん。
あえて佯狂になって憂き世を浮き世に転化するという江戸時代的な人生観でもって日常を遊ぶという余裕があれば、排外デモで憂さ晴らしをする真性の馬鹿、真性の狂人にならずに済むのにな。
そんな単純な話じゃねぇか。
もっと思考せんければあかぬ。
サルサを踊るお猿の脳髄が頭蓋に装填されている俺であるけれども考え続け、転がり続けることが大切な筈だものね。
大切ですものね。
ついタメ口の文章を書いてしまうのも改めねばならんもんね。
ならないですものね。
敬語、むずい。
かつてゴー宣で、中韓の反日ナショナリズムについて、『日本人は、大人ぶって、「まあまあ、そんなにむきにならずともそのくらい譲っておけ」と言ってしまう。』『相手の言うなりにしておいてやれと、大人ぶるのが良識だと思っている。それが、実は恐ろしい陥穽なんだな。』と書かれていましたが、まさに今それは排外デモをやっている連中に当てはまる言葉だと思いました。
あんな馬鹿どもには大した力もないんだから放っておくのが良識ある態度なんだと寛大なポーズで余裕ぶっこいていたら、とんでもないケダモノの群れを野放しにしている野蛮な国だと国際社会に認識されてしまう。
やはりゴー宣は過去の作品も何度も読み返し、その時々の時勢に合わせて意味を汲み取るべき。
ゴー宣『戦争論』がネトウヨを生み出したのだから、その責任を小林先生は取らねばならねぇ。
てな事を言う人々って、『時計じかけのオレンジ』に影響を受けた少年たちが「雨に唄えば」を口づさみながら強姦するという事件を起こしたことに対してキューブリックに責任があると抗議をした良識派について、どう思っているのだろう。
その結果、『時計じかけのオレンジ』がイギリス国内でおよそ20年間、封印映画になっていたことをどう思っているのだろう。
『戦争論』も封印作品にすべきだと考えているのだろうか。