先日第9話を以て終了した(終了せざるを得なかった・・)「明日ママがいない」の第8話の最後の部分です。 ---(引用開始)---- ドンキ(男がらみで身勝手、自分の都合で子を捨てたり、また迎えに来たりする女親の子)を実の母が迎えに来た。---ポスト「また同じような目にあうよ」施設長「実の親が迎えに来たら---どうしようもないんだ!」 いよいよ連れ戻される時、「ちょっと待って下さい・・・」施設長はドンキの前の水たまりに膝をつき泥水に額を擦りつけ、その顔を上げて≪ドンキに向かって丁寧に言う≫。 「私はコウノトリです。少子化の日本とはいえ、私達の数も足りずてんやわんやの忙しさです。言い訳をするつもりはありませんが、時々間違えてしまうことがあるんです。時々間違えて赤ちゃんを別な人の所に届けてしまうんです。 そこで、あなたに本当のママを選び直して頂きたいんです。--産んだのは親ではありません。いっぱいの愛情をもって育て上げるのが本当の親なんです。事実の親と真実の親は違うんです。」 児童相談所・女性職員の水沢、その隣りに膝まづき、母親に向かって 「私はコウノトリです。どうかお願いします。もう一度この子を届けるはずだった正しい親の元ー戻す機会をお与え下さい。」 自らも施設で育ち、施設の職員になっているロッカー、その隣りに膝まづき頭を下げる。 ---ドンキは土壇場で「事実の親」を振り払い「真実の親」を≪自ら≫選択しその胸に飛び込む--- 「なんて子なの! 誰が産んであげたと思ってんのよ。恩知らずにも程があるわ。勝手にすればいいわ、どうせ私の足手まといになるだけなんだから。」---「事実の親」の捨て台詞。 ---(引用ここまで)--- すべてのスポンサーが降りてしまったため、ドラマの合間には公共広告機構によるもののようなCMが繰り返し流されていました。その中に次の様なものがありました。 ---回転ずしのカウンターの席で、大人が次々流れて来る自然や資源などを貪り喰っている。少し先の席に一人の子供がポツンと座っており、何も流れてこない。「・・・ぼくの分は?・・・」と呟く。大人はふと気が付き、子供に一皿が手渡される。--- ドラマとはいえ、明日ママは、【子どもの立場からの告発】とも言える貴重で希有なものでした。それが始まった途端、世間で寄ってたかってバッシングし、ワンクールだけで終了させた経緯はすでにご存じの通りです。そのおためごかし、偽善、圧力には今回のように子供を縊り殺したものと同質なものを感じます。 ドラマ制作側では、まだまだ用意してあった内容、発展していく物語があったはずです。しかし、それは【子どもの立場からの告発】とともに縊り殺されたのでした。 刃はこちらに向いているのだと思います。 そしてカレー千衛兵さんがおっしゃったように「公論」を求めることは「子供について考える」ことと全く相似・・・何をとってもそうだったのだと気が付きます。
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小林よしのりチャンネル
(ID:16430497)
先日第9話を以て終了した(終了せざるを得なかった・・)「明日ママがいない」の第8話の最後の部分です。
---(引用開始)----
ドンキ(男がらみで身勝手、自分の都合で子を捨てたり、また迎えに来たりする女親の子)を実の母が迎えに来た。---ポスト「また同じような目にあうよ」施設長「実の親が迎えに来たら---どうしようもないんだ!」
いよいよ連れ戻される時、「ちょっと待って下さい・・・」施設長はドンキの前の水たまりに膝をつき泥水に額を擦りつけ、その顔を上げて≪ドンキに向かって丁寧に言う≫。
「私はコウノトリです。少子化の日本とはいえ、私達の数も足りずてんやわんやの忙しさです。言い訳をするつもりはありませんが、時々間違えてしまうことがあるんです。時々間違えて赤ちゃんを別な人の所に届けてしまうんです。
そこで、あなたに本当のママを選び直して頂きたいんです。--産んだのは親ではありません。いっぱいの愛情をもって育て上げるのが本当の親なんです。事実の親と真実の親は違うんです。」
児童相談所・女性職員の水沢、その隣りに膝まづき、母親に向かって
「私はコウノトリです。どうかお願いします。もう一度この子を届けるはずだった正しい親の元ー戻す機会をお与え下さい。」
自らも施設で育ち、施設の職員になっているロッカー、その隣りに膝まづき頭を下げる。
---ドンキは土壇場で「事実の親」を振り払い「真実の親」を≪自ら≫選択しその胸に飛び込む---
「なんて子なの! 誰が産んであげたと思ってんのよ。恩知らずにも程があるわ。勝手にすればいいわ、どうせ私の足手まといになるだけなんだから。」---「事実の親」の捨て台詞。
---(引用ここまで)---
すべてのスポンサーが降りてしまったため、ドラマの合間には公共広告機構によるもののようなCMが繰り返し流されていました。その中に次の様なものがありました。
---回転ずしのカウンターの席で、大人が次々流れて来る自然や資源などを貪り喰っている。少し先の席に一人の子供がポツンと座っており、何も流れてこない。「・・・ぼくの分は?・・・」と呟く。大人はふと気が付き、子供に一皿が手渡される。---
ドラマとはいえ、明日ママは、【子どもの立場からの告発】とも言える貴重で希有なものでした。それが始まった途端、世間で寄ってたかってバッシングし、ワンクールだけで終了させた経緯はすでにご存じの通りです。そのおためごかし、偽善、圧力には今回のように子供を縊り殺したものと同質なものを感じます。
ドラマ制作側では、まだまだ用意してあった内容、発展していく物語があったはずです。しかし、それは【子どもの立場からの告発】とともに縊り殺されたのでした。
刃はこちらに向いているのだと思います。
そしてカレー千衛兵さんがおっしゃったように「公論」を求めることは「子供について考える」ことと全く相似・・・何をとってもそうだったのだと気が付きます。