hiroponn のコメント

質問の回答、ありがとうございました。思った以上にバッサリでした(笑)

今、田中卓氏の「愛子さまが~」を読んでいます。
先生が今回「やむを得ず」皇族方を批判することとなってしまった思いもそうですが、氏の皇統護持にかける思いの深さ激しさに驚かされました。
その中で批判の対象となっている西尾幹二氏については、その著作にはたいへん勉強させてもらっただけに、皇室に対する無関心というかデリカシーのなさが悲しくなりました。

西尾氏といえばニーチェ、ニーチェつながりで適菜収氏との一連のやりとり、(こう言ったら失礼かもしれませんが)国語のテストみたいで面白かったです。
最初はなぜ適菜氏のあの文章でよしりん先生があんなに怒っているのかわからなかったのですが、トッキーさんのブログを読んでからもう一度読んで、なるほどと納得できました。
これ、完全に文章力と読解力、先生のよく言われる「国語力」の問題ですね。

氏はまず
>たしかに脱原発を唱えたときに、対案を示さないのは無責任以外のなにものでもない。
と書き、

そのあとに
>しかし、対案や解決策を示すことが無責任になるケースもある。/その代表が哲学だ。

と続けており、それが一応は文章のメインテーマになっているのですから、その前提として書かれた前段は
「対案や解決策を示<さないので>無責任になるケース」として書かれた、と解釈するのが適切であろうと思います。

その部分について適菜氏はブログのコメントに返信する形で「脱原発を唱えて対案を示す人もいるし、対案を示さない無責任な人もいるというだけの話です」と書いていますが、そういう意図であるのなら

「たしかに<例えば>脱原発を唱えたときに、対案を示さない<としたら>無責任以外のなにものでもない。」

ぐらいに書かないといけなかったのでは。

でもそれだとそのあとに
>しかし、対案や解決策を示すことが無責任になるケースもある。/その代表が哲学だ。

と続けるのはいかにも不自然になってしまいますね。


これ、テストに出すとしたらこんな感じでしょうか?

「脱原発を唱えたときに、対案を示さないのは無責任以外のなにものでもない。しかし、対案や解決策を示すことが無責任になるケースもある。その代表が哲学だ。」

この文章から読み取れる筆者の考えは下記のうちどちらか。

A:脱原発を唱えることは、対案や解決策を示さないので無責任になるケースのひとつである

B:脱原発を唱えて対案を示す人もいるし、対案を示さない無責任な人もいる

No.58 130ヶ月前

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