岸端編集長、小林師範、泉美師範、時浦師範代、今回も配信お疲れ様でした。 まずは、「ザ・神様」の感想から。突然の別れというから物語にありがちな涙の別れと思いきや、随分あっさりであっけない涙の別れで随分、現実的な話で拍子抜けしてしまい、後半の泉美師範自身の体験話を読んで、笑ってしまいました。そう、これは男女でもありがち?な別れ話でもあったわけです。一度何らかの不都合が生じればくどくど言わずに一言も言わずにあっさり去って行ったスクナビコナは見事。そして取り残されたオオクニヌシはさてさて、どうなってしまうんでしょうか?後々が楽しみです。 時浦師範代の「wiki直し」を読んで、Amazonでの「天皇論」や「大東亜論」のレビューを読んでみますと、どうやらこの「wikipedia」の著者はAmazonのレビューを過剰に意識しているようで、そのために「新天皇論」のwikipediaにおける記述もAmazonのレビューに伴う形でひどい記述になっているのだと思えてならないのです。これはwikipediaの女系天皇や皇位継承問題に関する記述でも同じです。 団塊の世代で一番厄介なのは、自分の手柄でもないのに、自分の手柄であるかのように自慢する人が多く、また、些細な手柄をさも、大きな手柄のごとく見せびらかす傾向が強い上に、それでいて自分たち下の世代に対しては経済効果や自分の体験話を基にして見下す人が多い所にあります。これは戦争を体験された方々にはあまり見られなかった傾向です。また、戦争を体験された先代に対してある種の劣等感を持っているのか、自分たちの上司や親、先輩の話をすることを極度に嫌います。この傾向が強いのか教授陣に団塊の世代が多かった大学でも女子学生を意図的に自分の研究室に集めては自分の自慢話に突き合わせて時を楽しむ教授を数多く見かけました。これらの教授は結局は学長などの出世や研究事業から外れるなど、自分に自信をつけることが遂に出来なかった劣等感の塊のような人たちでした。 近年、小林師範が指摘する保守論壇ホステスと保守論壇ホステスを相手に開設している論壇者を見ているとどうしても大学で見た、女子学生を酒飲みの相手にさせて上機嫌になっている教授を思い出します。結局、団塊の世代というのは戦争を体験して生き残られた先代に対して強烈な劣等感を抱えつつ、自分たちの手柄と自信に飢えている人が多い所に問題があるのではと思えてなりません。確かに団塊の世代を含む、先代を始めとする自分たちの祖先を大事にすることは大切なことですが、先代の奴隷となるかの如く、思考を停止して鵜呑みにする行為は危険であり、自分の世代が団塊の世代に気に入られるような態度を見るたびにこの先が心配になってきます。 以前にも江戸時代について語ろうものなら「何をアナクロニズムなことを言っている」と言われていましたが、オリンピックや原発こそ、アナクロニズムであることになぜに気が付かないのか不思議でなりませんでした。また、経済効果と言っても株価や貿易総額が絶対に庶民の経済効果に反映せず、むしろ、生産年齢人口(15歳~65歳の総人口)の総数と老人の人口のバランスによって庶民の経済効果も左右されるのであって、科学技術や五輪は何の効果ももたらさない所か、五輪や原発のように庶民の経済状態を悪化させます。 また、長谷川三千子氏が専業主婦こそが日本女性のあり方と言っていますが、私の家の場合、曾祖父の代から家族は皆、東京生まれの東京住まいなのですが、曾祖父の代と祖父母の代は共働きで高度経済成長の時期も祖父母の共働きによって家庭の生活が成り立っていました。これは当時の祖父母の家庭が特別なことではなく、東京の庶民層は山の手、下町問わず同じで、専業主婦がようやく一般的になったのは私の一世代前の、高度経済成長が終わった時期でした。東京都などの都市圏ではそれまでも大手企業の正社員や公務員には専業主婦でなければ家庭は成り立たなかったのでしょうが、大手企業の正社員や公務員以外ではむしろ、共働きが当たり前で、現代における日本の文化、文明の礎となった江戸時代の江戸などの大都市では、武士は単身者が大半を占めて庶民層も共働きであったこと、さらには女性の職業もかなりの数に上ったことから専業主婦はむしろ、明治以降に男尊女卑の感情が強まった時代にできた産物であると捉える方が正解であり、日本女性のあり方にならないと思います。 団塊の世代は厄介なところは戦争などの大きな人為的変動を経験したことがなく、一時代の産物の一つの経済成長という産物に固執しは時代の変化に鈍い所にあるのだと思います。こんご、このような事態が続けば世代を追うごとに団塊の世代よりも時代はさらにひどくなるのではと思えてなりません。
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岸端編集長、小林師範、泉美師範、時浦師範代、今回も配信お疲れ様でした。
まずは、「ザ・神様」の感想から。突然の別れというから物語にありがちな涙の別れと思いきや、随分あっさりであっけない涙の別れで随分、現実的な話で拍子抜けしてしまい、後半の泉美師範自身の体験話を読んで、笑ってしまいました。そう、これは男女でもありがち?な別れ話でもあったわけです。一度何らかの不都合が生じればくどくど言わずに一言も言わずにあっさり去って行ったスクナビコナは見事。そして取り残されたオオクニヌシはさてさて、どうなってしまうんでしょうか?後々が楽しみです。
時浦師範代の「wiki直し」を読んで、Amazonでの「天皇論」や「大東亜論」のレビューを読んでみますと、どうやらこの「wikipedia」の著者はAmazonのレビューを過剰に意識しているようで、そのために「新天皇論」のwikipediaにおける記述もAmazonのレビューに伴う形でひどい記述になっているのだと思えてならないのです。これはwikipediaの女系天皇や皇位継承問題に関する記述でも同じです。
団塊の世代で一番厄介なのは、自分の手柄でもないのに、自分の手柄であるかのように自慢する人が多く、また、些細な手柄をさも、大きな手柄のごとく見せびらかす傾向が強い上に、それでいて自分たち下の世代に対しては経済効果や自分の体験話を基にして見下す人が多い所にあります。これは戦争を体験された方々にはあまり見られなかった傾向です。また、戦争を体験された先代に対してある種の劣等感を持っているのか、自分たちの上司や親、先輩の話をすることを極度に嫌います。この傾向が強いのか教授陣に団塊の世代が多かった大学でも女子学生を意図的に自分の研究室に集めては自分の自慢話に突き合わせて時を楽しむ教授を数多く見かけました。これらの教授は結局は学長などの出世や研究事業から外れるなど、自分に自信をつけることが遂に出来なかった劣等感の塊のような人たちでした。
近年、小林師範が指摘する保守論壇ホステスと保守論壇ホステスを相手に開設している論壇者を見ているとどうしても大学で見た、女子学生を酒飲みの相手にさせて上機嫌になっている教授を思い出します。結局、団塊の世代というのは戦争を体験して生き残られた先代に対して強烈な劣等感を抱えつつ、自分たちの手柄と自信に飢えている人が多い所に問題があるのではと思えてなりません。確かに団塊の世代を含む、先代を始めとする自分たちの祖先を大事にすることは大切なことですが、先代の奴隷となるかの如く、思考を停止して鵜呑みにする行為は危険であり、自分の世代が団塊の世代に気に入られるような態度を見るたびにこの先が心配になってきます。
以前にも江戸時代について語ろうものなら「何をアナクロニズムなことを言っている」と言われていましたが、オリンピックや原発こそ、アナクロニズムであることになぜに気が付かないのか不思議でなりませんでした。また、経済効果と言っても株価や貿易総額が絶対に庶民の経済効果に反映せず、むしろ、生産年齢人口(15歳~65歳の総人口)の総数と老人の人口のバランスによって庶民の経済効果も左右されるのであって、科学技術や五輪は何の効果ももたらさない所か、五輪や原発のように庶民の経済状態を悪化させます。
また、長谷川三千子氏が専業主婦こそが日本女性のあり方と言っていますが、私の家の場合、曾祖父の代から家族は皆、東京生まれの東京住まいなのですが、曾祖父の代と祖父母の代は共働きで高度経済成長の時期も祖父母の共働きによって家庭の生活が成り立っていました。これは当時の祖父母の家庭が特別なことではなく、東京の庶民層は山の手、下町問わず同じで、専業主婦がようやく一般的になったのは私の一世代前の、高度経済成長が終わった時期でした。東京都などの都市圏ではそれまでも大手企業の正社員や公務員には専業主婦でなければ家庭は成り立たなかったのでしょうが、大手企業の正社員や公務員以外ではむしろ、共働きが当たり前で、現代における日本の文化、文明の礎となった江戸時代の江戸などの大都市では、武士は単身者が大半を占めて庶民層も共働きであったこと、さらには女性の職業もかなりの数に上ったことから専業主婦はむしろ、明治以降に男尊女卑の感情が強まった時代にできた産物であると捉える方が正解であり、日本女性のあり方にならないと思います。
団塊の世代は厄介なところは戦争などの大きな人為的変動を経験したことがなく、一時代の産物の一つの経済成長という産物に固執しは時代の変化に鈍い所にあるのだと思います。こんご、このような事態が続けば世代を追うごとに団塊の世代よりも時代はさらにひどくなるのではと思えてなりません。