みなぼんさん、無理はなさらないでください!ライジング・メンは誰一人咎めやしません!よしりん師範、時浦師範代、みなぼん編集長、スタッフの皆様、今週も執筆・編集・配信、有難うございました。 1月12日の「ネット道場」の核心部分を早くもライジングの「ゴー宣」にまとめて頂き有難うございます。私も大いに勘違いしていたことがあり非常に勉強になりました。それは遺骨信仰が仏教ではなかったという部分です。仏教の起こった地・インドにおいては、遺骨も含めた何もかもをガンジス河に流してきたと知ってはいたのですが、日本に伝来してきたら仏教も日本的に進化したんだろうなぁぐらいに軽く考えていました。しかし日本人の原初的な死生観においては、例えば縄文期には人の遺体は食用にした動物や魚の骨、貝殻などと一緒に再生を願って貝塚に葬られましたし、平安期には都の周りの鳥辺野や化野といった葬送地に風葬(野ざらし)にされたという記述が当時の文学作品に多く見られます。つまり平安期以前には骨を有難がる風習はなかったわけです。 戦国武将の墓が高野山・奥ノ院に多く存在している理由を前から不思議に思っていましたが、仰るように遺骨信仰が高野聖による鎌倉期以降の流行だとすれば納得できる気がします。こうして固まってきた遺骨信仰の風潮に江戸幕府のキリシタン対策としての寺壇制度が加わって強化され、葬送の儀式と埋葬地及びモニュメントが檀家契約を結んだ寺院の既得権益となって現在まで続いているのでしょう。この鎌倉期以降の仏教から派生した習俗は果たして伝統か因習か、それが問題なのですが、これには日本人の感性が関わっているように思います。日本人は自然の営みや動植物にもカミを見出す民族ですから、野ざらしの髑髏は泣いているように感じ憐れに思って埋葬しはじめたのでしょう。仏教の無常観に日本的感性が結びついて出来た習俗だと言えます。 遺骨を丁寧に扱う習俗の初期動機が日本的感性の憐れみから発したものだとしても、この伝統が時代に合わなくなれば因習となりかねません。核家族化によって分家だらけになれば墓の数ばかりが増えていきますが、高齢化で墓の管理が難しくなったり、少子化で家系が続かったりして祈りが途絶え、手入れもされない墓の残骸ばかりになるかもしれません。天皇皇后両陛下は「極力国民生活への影響の少ないものとすることが望ましい」とのご意向を示され、皇族の埋葬法は火葬になり、陵墓の規模も縮小されることになりました。伝統とは時代状況に合わせて改めるものだと教えてくださっているようです。国民の側も時代に合わせて葬送法と墓の簡素化を検討して良いと思われます。この先ますます少子化によって断絶家系が増えるため、形ばかりの永代供養にするよりは、火葬にした骨の一部は近しい人が参るために死者が生前好きだった地に散骨し、一部は誰もが参れるように共同墓地に埋葬するという形などがスマートかもしれません。 神儒仏が習合した日本においては、人は死ねば魂魄が分離し、魄は遺体の骨に残りますが、魂は遊離して村の近くの端山に集まる先祖の霊に合するようです。まだ土地と人が強く結びついていた時代には、春に里へ下りて田の神となり、秋に山へ戻って山の神となる社稷の神の正体は、このような名もなき集合祖霊だったのかもしれません。そしてお盆に迎える精霊とはその端山の集合祖霊から各家が個別に先祖の霊を迎えることだったかもしれません。功や霊威があって神となった人物なら特別に社が造られて祀られますが、近代以降の人で社に祀られた神様は靖国神社の英霊の他には数えるほどです。 遺骨信仰が鎌倉期以降の日本人の無常観から発した習俗だと分かれば、大東亜戦争の戦績における遺骨収集は遺族以外にとっては意味をなさず、収集事業の過程で死者を冒涜する詐欺まで横行するなら、遺族からの要請に応える形以外のものは即刻止めてしまって良いかもしれません。千鳥ヶ淵墓苑は第二次大戦に関連する埋葬地と慰霊のモニュメント群でしかなく、すでに祈りも絶えて完全に形骸化しています。ゆえに「靖国で会おう」と誓って逝った英霊たちは靖国以外に鎮まる場所はなく、現在の日本人が先の大戦に関わった先人を偲ぶには靖国神社を守っていくしかないわけです。つまりそれは英霊たちが信じて戦った遊就館の歴史観こそが国民の正史だと認識することであり、そのためには戦後米国を始めとする戦勝国によって奪われた正義を取り戻すことを目標に据えねばならず、米国からの独立の回復とオーバーラップした工程表を辿ることになるでしょう。 遊就館とも重なる「黒船からの百年戦争史観」は『大東亜論』が教科書? na85
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みなぼんさん、無理はなさらないでください!ライジング・メンは誰一人咎めやしません!よしりん師範、時浦師範代、みなぼん編集長、スタッフの皆様、今週も執筆・編集・配信、有難うございました。
1月12日の「ネット道場」の核心部分を早くもライジングの「ゴー宣」にまとめて頂き有難うございます。私も大いに勘違いしていたことがあり非常に勉強になりました。それは遺骨信仰が仏教ではなかったという部分です。仏教の起こった地・インドにおいては、遺骨も含めた何もかもをガンジス河に流してきたと知ってはいたのですが、日本に伝来してきたら仏教も日本的に進化したんだろうなぁぐらいに軽く考えていました。しかし日本人の原初的な死生観においては、例えば縄文期には人の遺体は食用にした動物や魚の骨、貝殻などと一緒に再生を願って貝塚に葬られましたし、平安期には都の周りの鳥辺野や化野といった葬送地に風葬(野ざらし)にされたという記述が当時の文学作品に多く見られます。つまり平安期以前には骨を有難がる風習はなかったわけです。
戦国武将の墓が高野山・奥ノ院に多く存在している理由を前から不思議に思っていましたが、仰るように遺骨信仰が高野聖による鎌倉期以降の流行だとすれば納得できる気がします。こうして固まってきた遺骨信仰の風潮に江戸幕府のキリシタン対策としての寺壇制度が加わって強化され、葬送の儀式と埋葬地及びモニュメントが檀家契約を結んだ寺院の既得権益となって現在まで続いているのでしょう。この鎌倉期以降の仏教から派生した習俗は果たして伝統か因習か、それが問題なのですが、これには日本人の感性が関わっているように思います。日本人は自然の営みや動植物にもカミを見出す民族ですから、野ざらしの髑髏は泣いているように感じ憐れに思って埋葬しはじめたのでしょう。仏教の無常観に日本的感性が結びついて出来た習俗だと言えます。
遺骨を丁寧に扱う習俗の初期動機が日本的感性の憐れみから発したものだとしても、この伝統が時代に合わなくなれば因習となりかねません。核家族化によって分家だらけになれば墓の数ばかりが増えていきますが、高齢化で墓の管理が難しくなったり、少子化で家系が続かったりして祈りが途絶え、手入れもされない墓の残骸ばかりになるかもしれません。天皇皇后両陛下は「極力国民生活への影響の少ないものとすることが望ましい」とのご意向を示され、皇族の埋葬法は火葬になり、陵墓の規模も縮小されることになりました。伝統とは時代状況に合わせて改めるものだと教えてくださっているようです。国民の側も時代に合わせて葬送法と墓の簡素化を検討して良いと思われます。この先ますます少子化によって断絶家系が増えるため、形ばかりの永代供養にするよりは、火葬にした骨の一部は近しい人が参るために死者が生前好きだった地に散骨し、一部は誰もが参れるように共同墓地に埋葬するという形などがスマートかもしれません。
神儒仏が習合した日本においては、人は死ねば魂魄が分離し、魄は遺体の骨に残りますが、魂は遊離して村の近くの端山に集まる先祖の霊に合するようです。まだ土地と人が強く結びついていた時代には、春に里へ下りて田の神となり、秋に山へ戻って山の神となる社稷の神の正体は、このような名もなき集合祖霊だったのかもしれません。そしてお盆に迎える精霊とはその端山の集合祖霊から各家が個別に先祖の霊を迎えることだったかもしれません。功や霊威があって神となった人物なら特別に社が造られて祀られますが、近代以降の人で社に祀られた神様は靖国神社の英霊の他には数えるほどです。
遺骨信仰が鎌倉期以降の日本人の無常観から発した習俗だと分かれば、大東亜戦争の戦績における遺骨収集は遺族以外にとっては意味をなさず、収集事業の過程で死者を冒涜する詐欺まで横行するなら、遺族からの要請に応える形以外のものは即刻止めてしまって良いかもしれません。千鳥ヶ淵墓苑は第二次大戦に関連する埋葬地と慰霊のモニュメント群でしかなく、すでに祈りも絶えて完全に形骸化しています。ゆえに「靖国で会おう」と誓って逝った英霊たちは靖国以外に鎮まる場所はなく、現在の日本人が先の大戦に関わった先人を偲ぶには靖国神社を守っていくしかないわけです。つまりそれは英霊たちが信じて戦った遊就館の歴史観こそが国民の正史だと認識することであり、そのためには戦後米国を始めとする戦勝国によって奪われた正義を取り戻すことを目標に据えねばならず、米国からの独立の回復とオーバーラップした工程表を辿ることになるでしょう。
遊就館とも重なる「黒船からの百年戦争史観」は『大東亜論』が教科書? na85