一週間ほど前に「かぐや姫の物語」をみて、七日に「ハンナ・アーレント」を見ました。SAPIO2月号で小林師範が「大東亜論」の欄外に「ハンナ・アーレント」には在特会やネトウヨなどの差別主義者が跋扈する日本にとって重要なメッセージが含まれていると述べていましたが、「かぐや姫の物語」も「ハンナ・アーレント」とは別の視点からして、在特会やネトウヨを含む現在の日本にとって重要なメッセージが含まれていると思いました。 まず、「ハンナ・アーレント」ではアーレントがアイヒマンを分析し、これからの教訓に生かそうという誠実な意味を論文に書き込んで読者に伝えようとしたにも拘らず、読者たちの大半が、読者たちの盲信するユダヤ人の絶対的な被害者観とアイヒマンのユダヤ人に対する憎悪だけに固執し、盲信から来る期待に応えなかったとしてアーレントに罵倒する様はまさに、在特会やネトウヨ、ネトバカ、そして自称保守たちに当てはまる行動でした。そしてアーレントを罵倒する人々とアイヒマンの共通する点が、アイヒマンも、アーレントを罵倒した人々も同じ「平凡な人」だという所に考える所がありました。映画の終わりにアーレントが冒頭で思考することの大切さと、思考を停止した時点で誰もがアイヒマン(自分の感想では、アーレントを罵倒した人々も含む)になれることであり、この思考停止が大虐殺や無差別殺傷、もしくは泥沼の戦争など、國運に悲劇をもたらす大きな要因になるという重要な意味合いが含まれているのだと思いました。 よって、自称保守やネトウヨ、ネトバカは自国の「優れている」部分を全面的に押し出しては中韓をこき下ろしていますが、本当に「優れている」か、あるいはなぜに「優れている」か追及せずに思考を停止している時点で、すでに、知識の時点で、自称保守やネトウヨ、ネトバカはアイヒマン、もしくはアーレントを罵倒した人々と同じであると見るべきで、自称保守やネトウヨ、ネトバカが自国の先進性を自国の将来のために有効に活用してくれるという期待も当然、持てず、帰って自国の先進性に泥を塗りかねない事態となりかねないわけです。 「かぐや姫の物語」はまさに胸を打つ作品で、これほど心に響いた作品は栄田に止まらず、本当に久しぶりだと思います。「かぐや姫の物語」の舞台となる里山は我が國の原点でもあり、原理でもあることが解る一方で、この作品では里山と都が完全に分離された社会であることがわかります。故に都で幾ら里山で養われた共同意識を望もうともそれは所詮、虚栄に満ちた「ニセモノ」の域を出ずに、自分自身もその虚栄の中にいる以上は本物を望めることはないことが痛いほど伝わってきました。物語の中盤で、かぐやに求婚を迫る貴族たちがいくら良き言葉を言おうとも、結局はその言葉の内容もまた虚栄心を満たすだけのニセモノであることがかぐやの無理難題によって暴かれますが、この箇所こそが現在の論壇誌におけるポジショントークとそのポジショントークを支援するネトバカ、ネトウヨを的確に表していたと感じました。論壇誌に限らず、僅かな震災で機能不全に陥る首都圏、想定内の震災で事故をお越し、放射能汚染を招く原発、津波に全く役に立たない堤防、冷夏に脆く、農薬、除草剤、化学肥料なしでは育てられない農産物や農業など、現在にはなんと、ニセモノが蔓延っているのやら。 「かぐや姫の物語」ではニセモノに気が付き、自身が求めていた本物に気が付いた時点ですでに手遅れであり、後悔しても後悔しきれない最期が待ち受けていますが、本物すら解らない、あるいはわかろうともしない現在の論壇誌でほざく輩やネトウヨ、ネトバカに果たして、このニセモノに苦しみ、本物を追い求めていた「かぐや姫の物語」の主人公に自分を重ね合わせることが出来るのやら。 物語の都では貴族と貴族以外の人々には売買などの交流はあれど、共同体はなく、完全に世界が分離されていました。故にいくら里山からの恵みをいただこうとも、里山にまでその意識は至らずに世界が分離した結果、共同体のない、虚栄に満ちた世界が作り出されているのだというのが現在の、私が感じた感想です。この世界はネットや論壇村に閉じこもっている人々にもまさに当てはまる世界で、この世界でいくら高貴な扱いを受けようとも永遠に我が國を含む、現実の世の中と分離され、その代償として飢餓や疫病、あるいは災害という天罰が下されるわけです。かぐやが人間界に居たときの記憶を消され、月に帰るというのはニセモノと本物を区別して認識した時にはすでに手遅れである場合が少なくないというna85さんが前回のライジングで述べた感想をそのままに表していると思います。これはネトバカ、ネトウヨはおろか、ポジショントークに引き籠り、TPP、グローバル、原発を推進している論壇者も絶対に「ハンナ・アーレント」とともに見ておかなければならない作品であり、この二作は今年、もっとも日本に影響を与える作品であってほしいと願います。 「風立ちぬ」より「かぐや姫の物語」の方が心に響きました。na85さん、作品の紹介ありがとうございます。
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一週間ほど前に「かぐや姫の物語」をみて、七日に「ハンナ・アーレント」を見ました。SAPIO2月号で小林師範が「大東亜論」の欄外に「ハンナ・アーレント」には在特会やネトウヨなどの差別主義者が跋扈する日本にとって重要なメッセージが含まれていると述べていましたが、「かぐや姫の物語」も「ハンナ・アーレント」とは別の視点からして、在特会やネトウヨを含む現在の日本にとって重要なメッセージが含まれていると思いました。
まず、「ハンナ・アーレント」ではアーレントがアイヒマンを分析し、これからの教訓に生かそうという誠実な意味を論文に書き込んで読者に伝えようとしたにも拘らず、読者たちの大半が、読者たちの盲信するユダヤ人の絶対的な被害者観とアイヒマンのユダヤ人に対する憎悪だけに固執し、盲信から来る期待に応えなかったとしてアーレントに罵倒する様はまさに、在特会やネトウヨ、ネトバカ、そして自称保守たちに当てはまる行動でした。そしてアーレントを罵倒する人々とアイヒマンの共通する点が、アイヒマンも、アーレントを罵倒した人々も同じ「平凡な人」だという所に考える所がありました。映画の終わりにアーレントが冒頭で思考することの大切さと、思考を停止した時点で誰もがアイヒマン(自分の感想では、アーレントを罵倒した人々も含む)になれることであり、この思考停止が大虐殺や無差別殺傷、もしくは泥沼の戦争など、國運に悲劇をもたらす大きな要因になるという重要な意味合いが含まれているのだと思いました。
よって、自称保守やネトウヨ、ネトバカは自国の「優れている」部分を全面的に押し出しては中韓をこき下ろしていますが、本当に「優れている」か、あるいはなぜに「優れている」か追及せずに思考を停止している時点で、すでに、知識の時点で、自称保守やネトウヨ、ネトバカはアイヒマン、もしくはアーレントを罵倒した人々と同じであると見るべきで、自称保守やネトウヨ、ネトバカが自国の先進性を自国の将来のために有効に活用してくれるという期待も当然、持てず、帰って自国の先進性に泥を塗りかねない事態となりかねないわけです。
「かぐや姫の物語」はまさに胸を打つ作品で、これほど心に響いた作品は栄田に止まらず、本当に久しぶりだと思います。「かぐや姫の物語」の舞台となる里山は我が國の原点でもあり、原理でもあることが解る一方で、この作品では里山と都が完全に分離された社会であることがわかります。故に都で幾ら里山で養われた共同意識を望もうともそれは所詮、虚栄に満ちた「ニセモノ」の域を出ずに、自分自身もその虚栄の中にいる以上は本物を望めることはないことが痛いほど伝わってきました。物語の中盤で、かぐやに求婚を迫る貴族たちがいくら良き言葉を言おうとも、結局はその言葉の内容もまた虚栄心を満たすだけのニセモノであることがかぐやの無理難題によって暴かれますが、この箇所こそが現在の論壇誌におけるポジショントークとそのポジショントークを支援するネトバカ、ネトウヨを的確に表していたと感じました。論壇誌に限らず、僅かな震災で機能不全に陥る首都圏、想定内の震災で事故をお越し、放射能汚染を招く原発、津波に全く役に立たない堤防、冷夏に脆く、農薬、除草剤、化学肥料なしでは育てられない農産物や農業など、現在にはなんと、ニセモノが蔓延っているのやら。
「かぐや姫の物語」ではニセモノに気が付き、自身が求めていた本物に気が付いた時点ですでに手遅れであり、後悔しても後悔しきれない最期が待ち受けていますが、本物すら解らない、あるいはわかろうともしない現在の論壇誌でほざく輩やネトウヨ、ネトバカに果たして、このニセモノに苦しみ、本物を追い求めていた「かぐや姫の物語」の主人公に自分を重ね合わせることが出来るのやら。
物語の都では貴族と貴族以外の人々には売買などの交流はあれど、共同体はなく、完全に世界が分離されていました。故にいくら里山からの恵みをいただこうとも、里山にまでその意識は至らずに世界が分離した結果、共同体のない、虚栄に満ちた世界が作り出されているのだというのが現在の、私が感じた感想です。この世界はネットや論壇村に閉じこもっている人々にもまさに当てはまる世界で、この世界でいくら高貴な扱いを受けようとも永遠に我が國を含む、現実の世の中と分離され、その代償として飢餓や疫病、あるいは災害という天罰が下されるわけです。かぐやが人間界に居たときの記憶を消され、月に帰るというのはニセモノと本物を区別して認識した時にはすでに手遅れである場合が少なくないというna85さんが前回のライジングで述べた感想をそのままに表していると思います。これはネトバカ、ネトウヨはおろか、ポジショントークに引き籠り、TPP、グローバル、原発を推進している論壇者も絶対に「ハンナ・アーレント」とともに見ておかなければならない作品であり、この二作は今年、もっとも日本に影響を与える作品であってほしいと願います。
「風立ちぬ」より「かぐや姫の物語」の方が心に響きました。na85さん、作品の紹介ありがとうございます。