岸端編集長、小林師範、泉美師範、時浦師範代および、よしりん企画の皆様、今年もよろしくお願いします。そして、新年初のライジング配信、御疲れ様です。 自称保守系雑誌は小林師範がWAC出版の「WILL」で「ゴーマニズム宣言」の連載を止めるまで、一定の関心を寄せていたのですが、あまりにも型に嵌った文章のために「WILL」で「ゴーマニズム宣言」を終了して以来、見向きもしなくなりました。正直言って、現在「大東亜論」を連載している雑誌、SAPIOもありきたりなビジネス雑誌や自称保守系の主張とあまり変わりがないことから、もし、小林師範が「大東亜論」を含む「ゴー宣」を連載していなかったらSAPIOの購読もやめると思います。親友にもゴー宣の単行本は買うがSAPIOは買わないという人が周囲に居ました。 これまで様々な言論人の主張を読み、活動を見てきましたが自称保守、革新左翼問わず、日本人が古来から養い、維持し続けてきた価値観を繋げて守っていこうとする行為が不完全ではありますが見られました。これは極左を除く、左翼、サヨクが行き過ぎた大量生産、大量消費に反対し、その一方で自称保守が國防のために武装強化を唱え、國家と國を守り、戦前、戦中日本の行為を冷静に分析する所に、日本人としての価値観を守ろうとする一例が見られます。しかし、ここで問題となってくるのが、自称保守も左翼、サヨクも小林師範が仰ったように欧米のような個性を維持する強い意志がないために、自分の主張よりも論壇者たちの集団に属することを目的に活動してしまい、自分自信を養うための知的誠実さや知性を養い、己自身の言葉と知性として吸収する柔軟性を失い、その結果、ネットなどから流入する大量の情報と同調圧力に流されて思考することが出来なくなり、言論の内容も同じ内容で停滞するか、論壇者たちの集団と同じになってしまうというわけです。この原因は高度経済成長から始まった、それまで日本人が頼ってきた共同体の完全なる崩壊が原因なのではないのかと思います。 人間が集団で活動する生き物である以上、宗教などの文化、文明によって共同体を維持しなければ個性も育たず、維持することも不可能であり、これは欧米とて変わりはありません。日本の場合、高度経済成長に伴い経済的に豊かになった一方で地域の過疎化と都市への人口流入、そして都市の急速な発展と変動によって明治以降の近代化によって崩されてきた、都市や都市以外の地域で維持されてきた共同体が完全に崩壊し、その結果、日本人は頼るべき共同体を求めているのだと思います。 ネトウヨ、ネトバカは掲示板以外に精神的に頼る共同体がないために掲示板に執着していますが、言論人もまた、論壇者の集団以外に精神的に頼る共同体がないために論壇者の集団にいるために固辞し続けるのでしょう。これはいくら肩書が多くとも結果は同じだと思います。そして、政治家もまた、落選してしまうと政界という共同体から干されることになってしまうために集団に所属している論壇者と同じ結果になってしまい、その結果、國民が期待する政治家が不在という状況に陥ってしまうわけです。 近代化によって共同体が崩壊する前は、日本には全国的に共同体が何重にも存在し、例え一つの共同体から抜け出すことが出来てもまた、一つの共同体があったことから、今よりも自由に行動ができましたが、現在はこれら共同体がほとんど、皆無に等しい人々が余にも多いからこそ、自由な主張も、自由に主張できる環境も生まれないのだと思います。この現象は都市であれ、都市以外の地域であれ同じだと思います。國民國家であり、近代國家である以上、國の行く末を真剣に考えることは大切ですが、それと同時に國民、一人一人がそれぞれの地域で共同体の創造と維持を真剣に考えて行かなければ國どころか自分自身の生活も自分自身の手で守っていくことすら難しい世の中になると思います。言論界でも共同体について真剣に考えなければいずれ、國民の関心も現在よりさらに薄くなることだと思います。 泉美師範の「ザ・神様」でスクナビコナを潰してしまったオオクニヌシを見ていると、なんだか口達者だが加減を知らない弟と腕っぷしが強い兄貴の兄弟げんかそのものですね。ここで損をするのが口達者なやつで、お互いになかなか仲直りできなかったりするんですよね。もっと、漫才みたいに続いてほしかったのですが、オオクニヌシは今度はどうするのでしょうか? 「大東亜論」を購入して読みました。これだけ分厚く、かつ熱い内容であるのにまだまだ続きがあると思うと楽しみで仕方がありません。SAPIOでも読み終えたとたんに「まだかまだか」という衝動を抑えるのに必死なのに、この単行本を熟読するとこの衝動はさらに抑えられなくなるので困ってます。そして「大東亜論」に止まらず、新たに書き下ろしを出版するなんて、読者をどこまで楽しませたらいいのかと、楽しみが心から溢れ出てしまいそうです。「大東亜論」の書下ろしも師範の満足のいく作品になることを期待しつつ、次回のライジングと、明日の道場を楽しみ似ていします。
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岸端編集長、小林師範、泉美師範、時浦師範代および、よしりん企画の皆様、今年もよろしくお願いします。そして、新年初のライジング配信、御疲れ様です。
自称保守系雑誌は小林師範がWAC出版の「WILL」で「ゴーマニズム宣言」の連載を止めるまで、一定の関心を寄せていたのですが、あまりにも型に嵌った文章のために「WILL」で「ゴーマニズム宣言」を終了して以来、見向きもしなくなりました。正直言って、現在「大東亜論」を連載している雑誌、SAPIOもありきたりなビジネス雑誌や自称保守系の主張とあまり変わりがないことから、もし、小林師範が「大東亜論」を含む「ゴー宣」を連載していなかったらSAPIOの購読もやめると思います。親友にもゴー宣の単行本は買うがSAPIOは買わないという人が周囲に居ました。
これまで様々な言論人の主張を読み、活動を見てきましたが自称保守、革新左翼問わず、日本人が古来から養い、維持し続けてきた価値観を繋げて守っていこうとする行為が不完全ではありますが見られました。これは極左を除く、左翼、サヨクが行き過ぎた大量生産、大量消費に反対し、その一方で自称保守が國防のために武装強化を唱え、國家と國を守り、戦前、戦中日本の行為を冷静に分析する所に、日本人としての価値観を守ろうとする一例が見られます。しかし、ここで問題となってくるのが、自称保守も左翼、サヨクも小林師範が仰ったように欧米のような個性を維持する強い意志がないために、自分の主張よりも論壇者たちの集団に属することを目的に活動してしまい、自分自信を養うための知的誠実さや知性を養い、己自身の言葉と知性として吸収する柔軟性を失い、その結果、ネットなどから流入する大量の情報と同調圧力に流されて思考することが出来なくなり、言論の内容も同じ内容で停滞するか、論壇者たちの集団と同じになってしまうというわけです。この原因は高度経済成長から始まった、それまで日本人が頼ってきた共同体の完全なる崩壊が原因なのではないのかと思います。
人間が集団で活動する生き物である以上、宗教などの文化、文明によって共同体を維持しなければ個性も育たず、維持することも不可能であり、これは欧米とて変わりはありません。日本の場合、高度経済成長に伴い経済的に豊かになった一方で地域の過疎化と都市への人口流入、そして都市の急速な発展と変動によって明治以降の近代化によって崩されてきた、都市や都市以外の地域で維持されてきた共同体が完全に崩壊し、その結果、日本人は頼るべき共同体を求めているのだと思います。
ネトウヨ、ネトバカは掲示板以外に精神的に頼る共同体がないために掲示板に執着していますが、言論人もまた、論壇者の集団以外に精神的に頼る共同体がないために論壇者の集団にいるために固辞し続けるのでしょう。これはいくら肩書が多くとも結果は同じだと思います。そして、政治家もまた、落選してしまうと政界という共同体から干されることになってしまうために集団に所属している論壇者と同じ結果になってしまい、その結果、國民が期待する政治家が不在という状況に陥ってしまうわけです。
近代化によって共同体が崩壊する前は、日本には全国的に共同体が何重にも存在し、例え一つの共同体から抜け出すことが出来てもまた、一つの共同体があったことから、今よりも自由に行動ができましたが、現在はこれら共同体がほとんど、皆無に等しい人々が余にも多いからこそ、自由な主張も、自由に主張できる環境も生まれないのだと思います。この現象は都市であれ、都市以外の地域であれ同じだと思います。國民國家であり、近代國家である以上、國の行く末を真剣に考えることは大切ですが、それと同時に國民、一人一人がそれぞれの地域で共同体の創造と維持を真剣に考えて行かなければ國どころか自分自身の生活も自分自身の手で守っていくことすら難しい世の中になると思います。言論界でも共同体について真剣に考えなければいずれ、國民の関心も現在よりさらに薄くなることだと思います。
泉美師範の「ザ・神様」でスクナビコナを潰してしまったオオクニヌシを見ていると、なんだか口達者だが加減を知らない弟と腕っぷしが強い兄貴の兄弟げんかそのものですね。ここで損をするのが口達者なやつで、お互いになかなか仲直りできなかったりするんですよね。もっと、漫才みたいに続いてほしかったのですが、オオクニヌシは今度はどうするのでしょうか?
「大東亜論」を購入して読みました。これだけ分厚く、かつ熱い内容であるのにまだまだ続きがあると思うと楽しみで仕方がありません。SAPIOでも読み終えたとたんに「まだかまだか」という衝動を抑えるのに必死なのに、この単行本を熟読するとこの衝動はさらに抑えられなくなるので困ってます。そして「大東亜論」に止まらず、新たに書き下ろしを出版するなんて、読者をどこまで楽しませたらいいのかと、楽しみが心から溢れ出てしまいそうです。「大東亜論」の書下ろしも師範の満足のいく作品になることを期待しつつ、次回のライジングと、明日の道場を楽しみ似ていします。