>>199:magomeさん 素晴らしいですね。私が付け足すことがほとんど無いくらい網羅されています。江戸文化には隆盛した時期と停滞した時期がありました。隆盛したのは元禄期、田沼時代、文化・文政期といった好景気の時代です。文化は規制されず紊乱気味となり、大奥も吉原も庶民も消費を盛んにし、幕府も藩も公共工事を行い、金に銀を混ぜて貨幣流通量を増やしました。停滞したのは主に享保・寛政・天保という朱子学者の為した改革期で、文化は規制され、質素倹約を推奨され、貨幣は純金に近くなり、つまり道理に適った政治が行われたわけですが、いずれも大不況になりました。天保の改革の失政で大規模な一揆や打ちこわしが頻発したことが幕府の衰退につながったとされ、その最大のものが陽明学徒・大塩中斎(平八郎)によるものです。 戦国期には猛々しい戦闘集団だった武士達を江戸初期には治世の為政者に変える必要があり、そのため導入された教育が忠孝といった上下関係を重視する朱子学でした。感情のままに刀を抜かない官僚としての武士が出世する世の中が来たのです。一方庶民階級には当時伝わった陽明学が近江聖人・中江藤樹とその弟子たちによって日本中に普及し、各地の寺子屋で子供のうちから教え込まれたようです。元々日本人は心のままを歌に詠んだり表現したりする文化があり、これはカミ様の前で清明正直になるという神道文化から来ていたと思われます。直ぐに刀を抜く戦国武士道もそういった大和心の発露だったと言えるかもしれません。このように心のままに行動することは陽明学の知行合一とは相性が良く、江戸期の庶民はあっという間にこれを体得し、商人や職人の行動様式として定着させ、その有名なものが江戸しぐさ(繁盛しぐさ)です。江戸や地方都市の庶民の子は寺子屋ではもちろん行動様式だけでなく読み書き算盤も習っており、そのため江戸期の識字率は70~80%にもなったと言われています。同時期のロンドンでは20~30%でした。 江戸中期から異国船が度々近海に現われましたが、幕府はこれを無視しました。海外の動きはオランダに報告させていたから詳細に知っていたわけです。しかし英国で産業革命が起こって蒸気船が発明されると状況が変わり、アヘン戦争に清が大敗するに至って幕府も焦りはじめます。幕末になると武士階級にも陽明学を学ぶものが多くなり、特に下級武士は江戸で黒船を見るなどしてナショナリズムに目覚め、心のままに脱藩しました。朱子学の強い水戸では水戸学によって尊皇心が高まりました(吉田松陰や西郷吉之助は水戸学の影響を受けた)が、水戸や会津は親藩・譜代であり、また藩校によって武士の子は朱子学を叩きこまれたため幕府に逆らうという発想が浮かばず、そのことが戊辰戦争の悲劇につながったと思われます。結局朱子学的な道理に拘る幕閣や上位の武士は動きが鈍く、幕末動乱期は陽明学徒が中心となって活躍しました。大塩中斎も吉田松陰も高杉晋作も西郷吉之助も陽明学徒です。吉田松陰が黒船に密航する際心のままを詠んだ歌が「かくすれば・かくなるものと・知りながら・已むに已まれぬ・大和魂」です。 江戸期の各藩の統治はピンからキリまであったはずであり、天皇のシラス政治よりは私有するウシハク政治に近かったはずですが、藩を共同体の単位とした場合そこに住まう領民の幸せという公に適った政治をした藩主や家老は少なくなかったと思われます。殿様と領民が一体となった感情共有体としての藩ができていた場合です。作柄が悪ければ備蓄米を放出して一揆が起こらないようにし、農繁期以外に街道や堤の整備を行って領民が飢えないようにしたはずです。江戸期には「木一本首一つ」と言われており、河畔・湖畔・海岸の森を伐採してはならないという「魚付林」の伝統がありました。植林も盛んで、戦国期に多かった禿山も減り、これで土砂災害も減ったようです。江戸期の藩主と大陸に蔓延った馬賊とを同じ扱いにされたら、世界史上の全ての領主がギロチンにかけられる必要が出てきます。 これで補えたかどうか分かりませんが… na85
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>>199:magomeさん
素晴らしいですね。私が付け足すことがほとんど無いくらい網羅されています。江戸文化には隆盛した時期と停滞した時期がありました。隆盛したのは元禄期、田沼時代、文化・文政期といった好景気の時代です。文化は規制されず紊乱気味となり、大奥も吉原も庶民も消費を盛んにし、幕府も藩も公共工事を行い、金に銀を混ぜて貨幣流通量を増やしました。停滞したのは主に享保・寛政・天保という朱子学者の為した改革期で、文化は規制され、質素倹約を推奨され、貨幣は純金に近くなり、つまり道理に適った政治が行われたわけですが、いずれも大不況になりました。天保の改革の失政で大規模な一揆や打ちこわしが頻発したことが幕府の衰退につながったとされ、その最大のものが陽明学徒・大塩中斎(平八郎)によるものです。
戦国期には猛々しい戦闘集団だった武士達を江戸初期には治世の為政者に変える必要があり、そのため導入された教育が忠孝といった上下関係を重視する朱子学でした。感情のままに刀を抜かない官僚としての武士が出世する世の中が来たのです。一方庶民階級には当時伝わった陽明学が近江聖人・中江藤樹とその弟子たちによって日本中に普及し、各地の寺子屋で子供のうちから教え込まれたようです。元々日本人は心のままを歌に詠んだり表現したりする文化があり、これはカミ様の前で清明正直になるという神道文化から来ていたと思われます。直ぐに刀を抜く戦国武士道もそういった大和心の発露だったと言えるかもしれません。このように心のままに行動することは陽明学の知行合一とは相性が良く、江戸期の庶民はあっという間にこれを体得し、商人や職人の行動様式として定着させ、その有名なものが江戸しぐさ(繁盛しぐさ)です。江戸や地方都市の庶民の子は寺子屋ではもちろん行動様式だけでなく読み書き算盤も習っており、そのため江戸期の識字率は70~80%にもなったと言われています。同時期のロンドンでは20~30%でした。
江戸中期から異国船が度々近海に現われましたが、幕府はこれを無視しました。海外の動きはオランダに報告させていたから詳細に知っていたわけです。しかし英国で産業革命が起こって蒸気船が発明されると状況が変わり、アヘン戦争に清が大敗するに至って幕府も焦りはじめます。幕末になると武士階級にも陽明学を学ぶものが多くなり、特に下級武士は江戸で黒船を見るなどしてナショナリズムに目覚め、心のままに脱藩しました。朱子学の強い水戸では水戸学によって尊皇心が高まりました(吉田松陰や西郷吉之助は水戸学の影響を受けた)が、水戸や会津は親藩・譜代であり、また藩校によって武士の子は朱子学を叩きこまれたため幕府に逆らうという発想が浮かばず、そのことが戊辰戦争の悲劇につながったと思われます。結局朱子学的な道理に拘る幕閣や上位の武士は動きが鈍く、幕末動乱期は陽明学徒が中心となって活躍しました。大塩中斎も吉田松陰も高杉晋作も西郷吉之助も陽明学徒です。吉田松陰が黒船に密航する際心のままを詠んだ歌が「かくすれば・かくなるものと・知りながら・已むに已まれぬ・大和魂」です。
江戸期の各藩の統治はピンからキリまであったはずであり、天皇のシラス政治よりは私有するウシハク政治に近かったはずですが、藩を共同体の単位とした場合そこに住まう領民の幸せという公に適った政治をした藩主や家老は少なくなかったと思われます。殿様と領民が一体となった感情共有体としての藩ができていた場合です。作柄が悪ければ備蓄米を放出して一揆が起こらないようにし、農繁期以外に街道や堤の整備を行って領民が飢えないようにしたはずです。江戸期には「木一本首一つ」と言われており、河畔・湖畔・海岸の森を伐採してはならないという「魚付林」の伝統がありました。植林も盛んで、戦国期に多かった禿山も減り、これで土砂災害も減ったようです。江戸期の藩主と大陸に蔓延った馬賊とを同じ扱いにされたら、世界史上の全ての領主がギロチンにかけられる必要が出てきます。
これで補えたかどうか分かりませんが… na85