さて、今週のライジングで原発事故が本題となってのでちょうど私が現在、読了して関心を示している槌田 敦 著 「『地球生態学』で暮らそう」における原子力について書こうと思います。 本書は地球上の生命、生態学を循環する機関(エンジン)であると述べて、そのエンジンとはエネルギー(熱量(カロリー))を吸収し、エネルギーを放出することであり、この期間が狂うことによって地球の生態学は崩れ、人類もこの災難から逃れることはできないというものです。 では、そのエンジンとはどういうものかというと、太陽光によって養分であるミネラル溢れる地上や海面で微生物名などの下等生物が養分を求めて吸収し、活動してはより高等生物が食べて養分に変えていくという食物連鎖の結果、また死んで養分となり、その養分によって海藻や木々が生い茂り、それを食物連鎖などの活動によってまた、養分となり、生物の活動は気候の変動に分け当てなく進化して地球の変動に変えてゆくというものです。もちろん、人類も例外ではなく、農業や都市文明もこの生態学エンジンに乗っ取った文明、文化は栄えている一方で生態学エンジンから外れた文明、文化は砂漠化によって国力が衰退して崩壊しています。ここでの重要な争点は、生態系に乗っ取っているか否かではなく、砂漠化するか否かにあります。そして、この砂漠化する原因というのが廃棄物をこの生態系エンジンに載せているか否かであるかという所に尽きるわけです。排泄物や残飯などの生ごみは養分として新たなる食物原料などの生命としての「循環」ができ、鉄などの貴金属も「再利用」という循環に載せることが出来ます。 しかし、その一方で石油製品などの化石燃料はこれら「循環」の軌道に乗せることが出来ないので完全に「生態系エンジン」から外れてしまいますし、原子力に至っては使用後も廃棄すらできないのですからこの「生態系エンジン」から最もかけ離れた存在となってしまいます。これは水一つとっても同じことで、アスワンハイダムが衰退した理由も得られた水よりも塩害による、塩分除去のための水が多くなり、廃棄できない塩という存在のためにアスワンハイダムは砂漠の製作所となって衰退しました。この塩分が放射能に変わったのが現在の原発事故であり、さらには自由貿易によって列強に追い詰められて、いまだにのど元を突きつけられているのが化石燃料だったりします。この化石燃料でもオーマサガスなど、自国で生産できる熱エネルギーもあるのですが押し売りという暴力によってなされる「自由貿易」によっていまだに政情不安定な中東などから買っていかねばなりませんし、横暴な米国からも買わなければならないという全くの「不自由貿易」を強いられていて、もし、これが国内で「生態系エンジン」に乗っ取ってやれれば、こんな煩わしいことはしなくていいわけで、より良い繁栄を謳歌することが出来るというわけです。 江戸時代というのはなぜに270年間争いもなく、幸せにいられたかというと、この「地球生態学」に最も近い存在、あるいは江戸時代そのものが「地球生態学」だったからであり、もし、江戸時代の原理のまま、我が國が続いていればそれは千年、万年平和の理想國となれたと思うのは何も大袈裟な解釈ではないと思います。 人類の将来は「地球生態エンジン」が循環しているか否かにかかっていると思います。
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さて、今週のライジングで原発事故が本題となってのでちょうど私が現在、読了して関心を示している槌田 敦 著 「『地球生態学』で暮らそう」における原子力について書こうと思います。
本書は地球上の生命、生態学を循環する機関(エンジン)であると述べて、そのエンジンとはエネルギー(熱量(カロリー))を吸収し、エネルギーを放出することであり、この期間が狂うことによって地球の生態学は崩れ、人類もこの災難から逃れることはできないというものです。
では、そのエンジンとはどういうものかというと、太陽光によって養分であるミネラル溢れる地上や海面で微生物名などの下等生物が養分を求めて吸収し、活動してはより高等生物が食べて養分に変えていくという食物連鎖の結果、また死んで養分となり、その養分によって海藻や木々が生い茂り、それを食物連鎖などの活動によってまた、養分となり、生物の活動は気候の変動に分け当てなく進化して地球の変動に変えてゆくというものです。もちろん、人類も例外ではなく、農業や都市文明もこの生態学エンジンに乗っ取った文明、文化は栄えている一方で生態学エンジンから外れた文明、文化は砂漠化によって国力が衰退して崩壊しています。ここでの重要な争点は、生態系に乗っ取っているか否かではなく、砂漠化するか否かにあります。そして、この砂漠化する原因というのが廃棄物をこの生態系エンジンに載せているか否かであるかという所に尽きるわけです。排泄物や残飯などの生ごみは養分として新たなる食物原料などの生命としての「循環」ができ、鉄などの貴金属も「再利用」という循環に載せることが出来ます。
しかし、その一方で石油製品などの化石燃料はこれら「循環」の軌道に乗せることが出来ないので完全に「生態系エンジン」から外れてしまいますし、原子力に至っては使用後も廃棄すらできないのですからこの「生態系エンジン」から最もかけ離れた存在となってしまいます。これは水一つとっても同じことで、アスワンハイダムが衰退した理由も得られた水よりも塩害による、塩分除去のための水が多くなり、廃棄できない塩という存在のためにアスワンハイダムは砂漠の製作所となって衰退しました。この塩分が放射能に変わったのが現在の原発事故であり、さらには自由貿易によって列強に追い詰められて、いまだにのど元を突きつけられているのが化石燃料だったりします。この化石燃料でもオーマサガスなど、自国で生産できる熱エネルギーもあるのですが押し売りという暴力によってなされる「自由貿易」によっていまだに政情不安定な中東などから買っていかねばなりませんし、横暴な米国からも買わなければならないという全くの「不自由貿易」を強いられていて、もし、これが国内で「生態系エンジン」に乗っ取ってやれれば、こんな煩わしいことはしなくていいわけで、より良い繁栄を謳歌することが出来るというわけです。
江戸時代というのはなぜに270年間争いもなく、幸せにいられたかというと、この「地球生態学」に最も近い存在、あるいは江戸時代そのものが「地球生態学」だったからであり、もし、江戸時代の原理のまま、我が國が続いていればそれは千年、万年平和の理想國となれたと思うのは何も大袈裟な解釈ではないと思います。
人類の将来は「地球生態エンジン」が循環しているか否かにかかっていると思います。