magomeさんん、渡辺京二氏の『近代の呪い』を読了しました。近代には2つの呪いが存在し、インターステートシステム(グローバル経済における国家間競争)と世界の人工化(自然から資源を収奪した人間が自然から隔離した都市文明を築いている)という近代の2つの負の面を御さない限り人類に未来はないと訴えているようでした。インターステートシステムについては>>78でカバーできているように思いますので、世界の人工化について。 聖書以前のアニミズム的世界における人間には自然の森羅万象との間に上下はありませんでしたが、西欧キリスト教の人間中心主義によって精神と物質が別れ、世界を対象として見るようになってからは人間様が特別だと思い上がり、自然の恩恵への感謝もなく資源を収奪しながら衣食住を充実させ、都市空間を拡大していきました。幕末に日本にやって来た西欧人から人間が自然より偉いという考え方を初めて聞いて驚いたという武士のエピソードが紹介されています。 2000年前の一人あたりのGDPは400ドルであり、以後1000年間は成長しても人口増によって吸収されてゼロ成長で変わらず、1820年までにわずかに600ドルまで増え、その後世紀末までの200年足らずの間に6000ドルまで急成長したそうです。これは世界の人工化で生活水準が上がったためです。量産される化繊の衣服を身に着け、量産される肥料・農薬で増産された食料を口にし、コンクリートジャングルの都市に住むというのが人工化です。このままでは明らかに地球はもたないはずですが、この方面からの人工化批判では同じ土俵に立っているため弱いわけです。 一般に人間中心主義の立場で言われているのは、人間という種が貴いから人命を尊重せよということですが、これは人類全体のためには少数の人間の犠牲はやむを得ないという考え方に簡単に行きつきます。これが理想を掲げる指導者の都合で行われれば数千万人単位の虐殺すら是とされます。適切な人工化批判のためにはここで発想を転換し、人間一人の命は貴いが人類という種はたいして偉くもないと捉えれば良いわけです。人類は自然から収奪するほど偉くないという認識に立てば無制限な世界の人工化は防げるかもしれません。一神教由来の思想を批判するのは相当難しそうですが。 渡辺氏は江戸期日本をフランス革命以前の西欧と同じく初期近代を分類されましたが、両者に違いがあるとすれば江戸期日本は人間中心主義にとらわれていないことです。近代化の萌芽を現わしながら人間も自然の森羅万象の一部だと捉える人々が暮らす人工化されていない唯一の世界は江戸期日本だったと思います。自然とカミへの畏敬を持ち続けているからこそ市街地と緑(鎮守の森)が混在する都市を築いてきたわけであり、現在もその名残は随所に見られます。西欧ではキリスト教に制圧された自然を敬うアニミズムが日本では神道として残っているからこそ世界の人工化を防ぐ旗手となれるはずです。世界の砂漠化と都市化(地球にとっては砂漠化に等しい)に対しては潜在自然植生の森を植える思想を伝播し、グローバリズムvsリージョナリズムの綱引きの局面においては里山資本主義という共同体主義の展開が対抗できるかもしれません。人が都市から農山漁村の村落共同体へ分散していけば無制限な都市化・人工化にも歯止めがかかるでしょう。つまり人工化による一人当たりのGDP伸び率を抑制するには、森を増やして砂漠の太陽(一神教のGOD)を地上の森に降ろすことが解決の道となるように思います。顔の見えるある一人の人命は貴いけど、人間全体というマスの各個の命は全然貴くないとそろそろ気づくべきです。そうすれば、マスコミ報道で世界のどこかの紛争地域や災害地域、貧困地域で大量の餓死者が出ているのを眺めながら、最新医療で大量のエネルギーを使いながらむやみに延命するということも無くなるでしょう。 これも江戸システムのひとつ na85
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magomeさんん、渡辺京二氏の『近代の呪い』を読了しました。近代には2つの呪いが存在し、インターステートシステム(グローバル経済における国家間競争)と世界の人工化(自然から資源を収奪した人間が自然から隔離した都市文明を築いている)という近代の2つの負の面を御さない限り人類に未来はないと訴えているようでした。インターステートシステムについては>>78でカバーできているように思いますので、世界の人工化について。
聖書以前のアニミズム的世界における人間には自然の森羅万象との間に上下はありませんでしたが、西欧キリスト教の人間中心主義によって精神と物質が別れ、世界を対象として見るようになってからは人間様が特別だと思い上がり、自然の恩恵への感謝もなく資源を収奪しながら衣食住を充実させ、都市空間を拡大していきました。幕末に日本にやって来た西欧人から人間が自然より偉いという考え方を初めて聞いて驚いたという武士のエピソードが紹介されています。
2000年前の一人あたりのGDPは400ドルであり、以後1000年間は成長しても人口増によって吸収されてゼロ成長で変わらず、1820年までにわずかに600ドルまで増え、その後世紀末までの200年足らずの間に6000ドルまで急成長したそうです。これは世界の人工化で生活水準が上がったためです。量産される化繊の衣服を身に着け、量産される肥料・農薬で増産された食料を口にし、コンクリートジャングルの都市に住むというのが人工化です。このままでは明らかに地球はもたないはずですが、この方面からの人工化批判では同じ土俵に立っているため弱いわけです。
一般に人間中心主義の立場で言われているのは、人間という種が貴いから人命を尊重せよということですが、これは人類全体のためには少数の人間の犠牲はやむを得ないという考え方に簡単に行きつきます。これが理想を掲げる指導者の都合で行われれば数千万人単位の虐殺すら是とされます。適切な人工化批判のためにはここで発想を転換し、人間一人の命は貴いが人類という種はたいして偉くもないと捉えれば良いわけです。人類は自然から収奪するほど偉くないという認識に立てば無制限な世界の人工化は防げるかもしれません。一神教由来の思想を批判するのは相当難しそうですが。
渡辺氏は江戸期日本をフランス革命以前の西欧と同じく初期近代を分類されましたが、両者に違いがあるとすれば江戸期日本は人間中心主義にとらわれていないことです。近代化の萌芽を現わしながら人間も自然の森羅万象の一部だと捉える人々が暮らす人工化されていない唯一の世界は江戸期日本だったと思います。自然とカミへの畏敬を持ち続けているからこそ市街地と緑(鎮守の森)が混在する都市を築いてきたわけであり、現在もその名残は随所に見られます。西欧ではキリスト教に制圧された自然を敬うアニミズムが日本では神道として残っているからこそ世界の人工化を防ぐ旗手となれるはずです。世界の砂漠化と都市化(地球にとっては砂漠化に等しい)に対しては潜在自然植生の森を植える思想を伝播し、グローバリズムvsリージョナリズムの綱引きの局面においては里山資本主義という共同体主義の展開が対抗できるかもしれません。人が都市から農山漁村の村落共同体へ分散していけば無制限な都市化・人工化にも歯止めがかかるでしょう。つまり人工化による一人当たりのGDP伸び率を抑制するには、森を増やして砂漠の太陽(一神教のGOD)を地上の森に降ろすことが解決の道となるように思います。顔の見えるある一人の人命は貴いけど、人間全体というマスの各個の命は全然貴くないとそろそろ気づくべきです。そうすれば、マスコミ報道で世界のどこかの紛争地域や災害地域、貧困地域で大量の餓死者が出ているのを眺めながら、最新医療で大量のエネルギーを使いながらむやみに延命するということも無くなるでしょう。
これも江戸システムのひとつ na85