ようやく宇野常寛氏のダ・ヴィンチの論文を立ち読みしました。一読しただけで書きますので、間違っている場合もあるかもしれません。その場合ご容赦ください。 さて、ここですでに多くの方が書かれているように菜穂子犠牲者論が全く気に入りません。菜穂子は二郎が呼んだわけではなく、自分の命が尽きる前あるいは自分が精神的にも肉体的にも美しくいられる間に会いたいから病院を抜け出して二郎に会いに来たのです。黒川邸の離れでの生活は菜穂子の命を削ったかもしれませんが、大切な仕事を遂行する二郎を精神的に支えられたことが十分幸せだったのです。そして菜穂子は美しくいられなくなっていく自分を二郎に見せたくないため黒川邸を自分の意志で去るまで、あるいは病院に戻った後もその残り香で、ドーパミン放出全開の幸福のうちに過ごせたのではないかと思います。命を燃焼する菜穂子の生き方を、その幸福を羨ましくは思えても、かわいそうとか犠牲者だとかは微塵も思えませんでした。 二郎は美しい機体を作りたいという夢と戦争中であるという時代の要請との接点である戦闘力が高くて美しい飛行機・零戦を作り上げました。これはよしりん師範もブログで仰ったように二郎の創造者の業であり、マチズモとは何の関係もありません。また宮崎駿が二郎に戦争協力した反省を一切語らせなかったのは、カプローニ博士が夢の中で二郎に啓示を与えるというファンタジーを物語に組み込んだとしても、現代の感覚で戦争協力を後悔させるような形で登場人物・二郎の心情にウソを混入して物語をニセモノにしたくなかったからです。これは宮崎駿の創造者の業です。宇野は21世紀の感覚で大東亜戦時中の人々の感覚や行動を批判しているだけですが、その手垢のついた立論に新味を持たせるため持ち出したのがマチズモ=マッチョです。宇野が一番言いたいのは、日本の男が女に甘えてマッチョに振る舞い、女がその犠牲になっている、それが日本の家族・男女間の大問題だということでしょう。「風立ちぬ」の場合では、二郎の風貌や性格は全然マッチョではありませんが、戦争遂行のための兵器をつくる仕事に没頭するという意味から二郎はマッチョであり、だから菜穂子は夫の犠牲者であるとともに国家の犠牲者である、とでも言いたかったのでしょう。二郎=宮崎駿だとした上で、宮崎氏のこれまでのサヨク的な言説は本音ではなく、戦争した過去の日本を実は痛快に感じているマッチョだけど敗戦国だからそれを表に出せず、そのねじれが女性・妻に当たる、あるいは甘えるという典型的な戦後の日本の男なのだと言うわけです。過去の複数の宮崎作品を例に挙げて精神分析するように宮崎氏の女性への依存性を書きたててもいます。まるで『戦争論』後によしりん先生を悪しざまに精神分析した野田正彰そっくりです。敗戦国の為した戦争は絶対悪だー、本音では戦争を肯定したい奴は皆マッチョだー、その男のマッチョや甘えのせいで女が犠牲になってるぞー、宇野が言いたいのはこれだけです。それを捏ね繰り回した理屈で煙に巻いているだけで、結局はサヨク世間で満点をもらえるポジショントークでしかありません。内容スカスカなことを高尚そうに見せる技はまるでスガ秀美そっくりです。また世界的に評価の高い宮崎駿を批判することで注目されたいという田原総一郎的マーケティング(例:世論が原発反対だから自分は原発擁護する)のような醜悪さも感じます。このようにサヨクイデオロギーとマーケティング技術=商売で目を曇らせてしまったため、素晴らしい作品を素晴らしいと感じる回路を自ら閉ざすわけです。 実に可愛そうな戦後論壇の犠牲者です na85 そぽろさんへ よしりん先生はかつて「○○論より○○物語のほうが上だ」と言われました。「万人受けするモノを描きたいがどうしても毒の部分が滲み出てしまって嫌われる」とも言われました。また「売れるからいいとは限らない」と嫉妬野郎から『ゴー宣』に批判が来た時もそれを明快に否定しておられます。創作者としての自分は宮崎駿の100分の1だという発言は、まだ今は政治的な「論」を創作の中心に据えなければならない状況と、これからまたフィクション=「物語」を描く際にも万人受けはしないであろうという自分の創作におけるサガを込みで考え、さらに業界の先人には必ず敬意を払うというよしりん先生の姿勢などが相まってのモノだと思います。そぽろさんが、よしりん師範をとても好きだから宮崎批判をしたいという気持ちも分からなくはありませんが、ここは師範の思いに添おうじゃありませんか。 雷神宮歌会の新展開に応じてくださった方へ ありがとうございます。これに尽きます。 なお、テーマは毎回私が決めるわけではなく、ライジングコンテンツを読んで最初にインスピレーションの湧いた人がテーマ設定し、後の人はそれに従って投稿してください。
チャンネルに入会
フォロー
小林よしのりチャンネル
(ID:16221355)
ようやく宇野常寛氏のダ・ヴィンチの論文を立ち読みしました。一読しただけで書きますので、間違っている場合もあるかもしれません。その場合ご容赦ください。
さて、ここですでに多くの方が書かれているように菜穂子犠牲者論が全く気に入りません。菜穂子は二郎が呼んだわけではなく、自分の命が尽きる前あるいは自分が精神的にも肉体的にも美しくいられる間に会いたいから病院を抜け出して二郎に会いに来たのです。黒川邸の離れでの生活は菜穂子の命を削ったかもしれませんが、大切な仕事を遂行する二郎を精神的に支えられたことが十分幸せだったのです。そして菜穂子は美しくいられなくなっていく自分を二郎に見せたくないため黒川邸を自分の意志で去るまで、あるいは病院に戻った後もその残り香で、ドーパミン放出全開の幸福のうちに過ごせたのではないかと思います。命を燃焼する菜穂子の生き方を、その幸福を羨ましくは思えても、かわいそうとか犠牲者だとかは微塵も思えませんでした。
二郎は美しい機体を作りたいという夢と戦争中であるという時代の要請との接点である戦闘力が高くて美しい飛行機・零戦を作り上げました。これはよしりん師範もブログで仰ったように二郎の創造者の業であり、マチズモとは何の関係もありません。また宮崎駿が二郎に戦争協力した反省を一切語らせなかったのは、カプローニ博士が夢の中で二郎に啓示を与えるというファンタジーを物語に組み込んだとしても、現代の感覚で戦争協力を後悔させるような形で登場人物・二郎の心情にウソを混入して物語をニセモノにしたくなかったからです。これは宮崎駿の創造者の業です。宇野は21世紀の感覚で大東亜戦時中の人々の感覚や行動を批判しているだけですが、その手垢のついた立論に新味を持たせるため持ち出したのがマチズモ=マッチョです。宇野が一番言いたいのは、日本の男が女に甘えてマッチョに振る舞い、女がその犠牲になっている、それが日本の家族・男女間の大問題だということでしょう。「風立ちぬ」の場合では、二郎の風貌や性格は全然マッチョではありませんが、戦争遂行のための兵器をつくる仕事に没頭するという意味から二郎はマッチョであり、だから菜穂子は夫の犠牲者であるとともに国家の犠牲者である、とでも言いたかったのでしょう。二郎=宮崎駿だとした上で、宮崎氏のこれまでのサヨク的な言説は本音ではなく、戦争した過去の日本を実は痛快に感じているマッチョだけど敗戦国だからそれを表に出せず、そのねじれが女性・妻に当たる、あるいは甘えるという典型的な戦後の日本の男なのだと言うわけです。過去の複数の宮崎作品を例に挙げて精神分析するように宮崎氏の女性への依存性を書きたててもいます。まるで『戦争論』後によしりん先生を悪しざまに精神分析した野田正彰そっくりです。敗戦国の為した戦争は絶対悪だー、本音では戦争を肯定したい奴は皆マッチョだー、その男のマッチョや甘えのせいで女が犠牲になってるぞー、宇野が言いたいのはこれだけです。それを捏ね繰り回した理屈で煙に巻いているだけで、結局はサヨク世間で満点をもらえるポジショントークでしかありません。内容スカスカなことを高尚そうに見せる技はまるでスガ秀美そっくりです。また世界的に評価の高い宮崎駿を批判することで注目されたいという田原総一郎的マーケティング(例:世論が原発反対だから自分は原発擁護する)のような醜悪さも感じます。このようにサヨクイデオロギーとマーケティング技術=商売で目を曇らせてしまったため、素晴らしい作品を素晴らしいと感じる回路を自ら閉ざすわけです。
実に可愛そうな戦後論壇の犠牲者です na85
そぽろさんへ
よしりん先生はかつて「○○論より○○物語のほうが上だ」と言われました。「万人受けするモノを描きたいがどうしても毒の部分が滲み出てしまって嫌われる」とも言われました。また「売れるからいいとは限らない」と嫉妬野郎から『ゴー宣』に批判が来た時もそれを明快に否定しておられます。創作者としての自分は宮崎駿の100分の1だという発言は、まだ今は政治的な「論」を創作の中心に据えなければならない状況と、これからまたフィクション=「物語」を描く際にも万人受けはしないであろうという自分の創作におけるサガを込みで考え、さらに業界の先人には必ず敬意を払うというよしりん先生の姿勢などが相まってのモノだと思います。そぽろさんが、よしりん師範をとても好きだから宮崎批判をしたいという気持ちも分からなくはありませんが、ここは師範の思いに添おうじゃありませんか。
雷神宮歌会の新展開に応じてくださった方へ
ありがとうございます。これに尽きます。
なお、テーマは毎回私が決めるわけではなく、ライジングコンテンツを読んで最初にインスピレーションの湧いた人がテーマ設定し、後の人はそれに従って投稿してください。