「闘論席」小林先生の原稿と実際掲載された文章を読み比べてみました。 「しかし、これを煽動している週刊文春や週刊新潮の記事を熟読しても、彼らのやったことは絶対にレイプではなく、何の犯罪行為でもない。」 「週刊誌は「レイプ」とも「性犯罪」とも書かず、「性加害」としきりに書いているが、それは何なのかが問題なのだ。」 「性接待」などと表現しているが、拉致したわけでもなく、女性が拒否できたのなら、犯罪性はない。」 「男だろうと、女だろうと、遊びでセックスしている者は多いし、異性を道具扱いしている女性だって普通にいる。遊びの性的関係から、ロマンチックな恋愛に発展することもあれば、怨根が残る関係になることもある。 たとえ遊びの性的関係から怨恨が残ろうと、あくまでも私的な問題であり、それを週刊誌が社会正義を背負ったかのように書き立てて、才能ある人物を抹殺するのは社会の損失である。」 これが丸々書き替えられてたり、削除されたりして、結果編集者の方がギリギリ小林先生の主張が伝わるようにしたという印象を持ちました。小林先生の言いたい人間の性の複雑さに対する洞察がゴッソリ抜けた、闘うことを忘れた「闘論席」になってしまったと感じざるを得ません。 レイプが非親告罪になったにしても、松本人志氏のケースは犯罪の前提の被害届すら出ていないのに有名人だから、強者だからどんなに下劣に見える印象操作をしても良いのだという理屈は成り立ちません。 週刊文春が法も無視して「被害者の証言」だけで1人の芸能人の生業を奪ってしまうまでの暴走を許しているのに、「被害者に配慮しなくては」の風潮に異を唱えることも遠慮するのはやはり「保身」だと思います。 世間の空気が一方に流れている時に大切なのは「本当のことは何なのか」を軸にすることです。本当のことを伝える為にあえて被害者の言動への疑問も主張できるのがバランスの取れたメディアのあるべき姿勢ではないでしようか。
チャンネルに入会
フォロー
小林よしのりチャンネル
(ID:19409148)
「闘論席」小林先生の原稿と実際掲載された文章を読み比べてみました。
「しかし、これを煽動している週刊文春や週刊新潮の記事を熟読しても、彼らのやったことは絶対にレイプではなく、何の犯罪行為でもない。」
「週刊誌は「レイプ」とも「性犯罪」とも書かず、「性加害」としきりに書いているが、それは何なのかが問題なのだ。」
「性接待」などと表現しているが、拉致したわけでもなく、女性が拒否できたのなら、犯罪性はない。」
「男だろうと、女だろうと、遊びでセックスしている者は多いし、異性を道具扱いしている女性だって普通にいる。遊びの性的関係から、ロマンチックな恋愛に発展することもあれば、怨根が残る関係になることもある。
たとえ遊びの性的関係から怨恨が残ろうと、あくまでも私的な問題であり、それを週刊誌が社会正義を背負ったかのように書き立てて、才能ある人物を抹殺するのは社会の損失である。」
これが丸々書き替えられてたり、削除されたりして、結果編集者の方がギリギリ小林先生の主張が伝わるようにしたという印象を持ちました。小林先生の言いたい人間の性の複雑さに対する洞察がゴッソリ抜けた、闘うことを忘れた「闘論席」になってしまったと感じざるを得ません。
レイプが非親告罪になったにしても、松本人志氏のケースは犯罪の前提の被害届すら出ていないのに有名人だから、強者だからどんなに下劣に見える印象操作をしても良いのだという理屈は成り立ちません。
週刊文春が法も無視して「被害者の証言」だけで1人の芸能人の生業を奪ってしまうまでの暴走を許しているのに、「被害者に配慮しなくては」の風潮に異を唱えることも遠慮するのはやはり「保身」だと思います。
世間の空気が一方に流れている時に大切なのは「本当のことは何なのか」を軸にすることです。本当のことを伝える為にあえて被害者の言動への疑問も主張できるのがバランスの取れたメディアのあるべき姿勢ではないでしようか。