>>88 >>89 >>93 紫式部と清少納言の「面識」ですが、 1.清少納言は藤原道隆の娘、定子に正暦4年(993年)冬頃から、長保2年(1000年)の定子の死歿まで仕えており、 紫式部は長保3年4月15日(1001年5月10日)に夫の宣孝と死別したのち、道長の娘、彰子の女房として、寛弘2年か3年の12月29日(1006年1月31日or1007年1月20日)より、少なくとも寛弘8年(1012年)頃まで仕えていたとのことです。 つまり、この二人の宮中出仕時期にはずれがあるわけです。 2.ただ、紫式部は「光る君へ」にも登場する源倫子と藤原道長との結婚の際に、付き添いの女房として出仕した可能性もあるらしく 『源氏物語』解説書『河海抄』『紫明抄』、歴史物語『今鏡』によると紫式部は倫子の女房であったという記述もあるとのことです。 つまり、放送にあったようなシチュエーションで、「まひろ」さんと「ききゃう」さんが出会ったような話も可能性としてはありなわけで。 3.また、清少納言が出仕を終えたのち、再婚相手の任国、摂津国(大阪市・堺氏と、神戸市あたり一帯)に引き下がったようなのですが、 宮中から定子の遺児の内親王を養育すべしという使者がおとづれたのではないか、という学説もあり、 再出仕の際に紫式部と顔をあわせたのでは、というふうにも言われています。 4.ちなみに、「紫式部日記」では、紫式部は赤染衛門・和泉式部や清少納言らのことをこき下ろしています。そういうところからも、彼女らに面識があったのでは、という説が補強されています。 …かなりカタイ話になりぬれども、要は想像のうち、ということなのでしょうか?徳川家康が織田家の人質時代に信長に出会ったらしい、ということとか、同じ大河ドラマ「新撰組」で近藤勇らが(たまたま出会った)桂小五郎と黒船を一緒に見に行った、みたいな感じで。 記録も重要だけれども、記録にあらわれていない、残されていない事実、真実もあるのでしょう。 こんな感じでよろしいでしょうか、あしたのジョージさん、国士無双十三面待ちさん。
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小林よしのりチャンネル
(ID:22136524)
>>88
>>89
>>93
紫式部と清少納言の「面識」ですが、
1.清少納言は藤原道隆の娘、定子に正暦4年(993年)冬頃から、長保2年(1000年)の定子の死歿まで仕えており、
紫式部は長保3年4月15日(1001年5月10日)に夫の宣孝と死別したのち、道長の娘、彰子の女房として、寛弘2年か3年の12月29日(1006年1月31日or1007年1月20日)より、少なくとも寛弘8年(1012年)頃まで仕えていたとのことです。
つまり、この二人の宮中出仕時期にはずれがあるわけです。
2.ただ、紫式部は「光る君へ」にも登場する源倫子と藤原道長との結婚の際に、付き添いの女房として出仕した可能性もあるらしく
『源氏物語』解説書『河海抄』『紫明抄』、歴史物語『今鏡』によると紫式部は倫子の女房であったという記述もあるとのことです。
つまり、放送にあったようなシチュエーションで、「まひろ」さんと「ききゃう」さんが出会ったような話も可能性としてはありなわけで。
3.また、清少納言が出仕を終えたのち、再婚相手の任国、摂津国(大阪市・堺氏と、神戸市あたり一帯)に引き下がったようなのですが、
宮中から定子の遺児の内親王を養育すべしという使者がおとづれたのではないか、という学説もあり、
再出仕の際に紫式部と顔をあわせたのでは、というふうにも言われています。
4.ちなみに、「紫式部日記」では、紫式部は赤染衛門・和泉式部や清少納言らのことをこき下ろしています。そういうところからも、彼女らに面識があったのでは、という説が補強されています。
…かなりカタイ話になりぬれども、要は想像のうち、ということなのでしょうか?徳川家康が織田家の人質時代に信長に出会ったらしい、ということとか、同じ大河ドラマ「新撰組」で近藤勇らが(たまたま出会った)桂小五郎と黒船を一緒に見に行った、みたいな感じで。
記録も重要だけれども、記録にあらわれていない、残されていない事実、真実もあるのでしょう。
こんな感じでよろしいでしょうか、あしたのジョージさん、国士無双十三面待ちさん。