>>216 >>228 つまり、ジャニー喜多川氏に、「自分のしていることは男色文化の伝統があるからOK」みたいな意識があったかいなか、という証明をしてほしい、証拠を示して欲しいと出張されているわけですよね。 私はこれはジャニーという人の嗜好の問題で、彼が同性愛者だから、というふうに理解をし、「そういう趣味の人がいるんだなあ」で済ませてしまったのですが(これも、「自分の未知の領域」への「想像」なのですが)…違うのでしょうか? AKBの場合は、秋元康がノーマルだから、なのでしょうが、それでも、性被害を強要されたら、訴えないといけないでしょう。女性には男性にはない「生理」という問題があります(生理的に受け付けない、というのとは異なります)。 そして、日本における、「能」とか「狂言」とか、「歌舞伎」とかの「成立過程」とかを考えると、「同性愛文化」はあるのだと「想像」されますし、ジャニー氏がそのことに無自覚だったとしても、「藝能」の「歴史」とか「雰囲気」とか「場」とかが、影響している可能性ひゃありかな、と。 さらにいえば、現代のマスコミがそのことに「無自覚」であるか、あるいはそれを「隠蔽」しようとしている、ではないか、と。 ここから先のことは、自身で調べることではないか、よしりん先生の手を煩わせるものでもない、と思います。昔、意味のわからない語を、小学校の先生に尋ねたら、 「お前は辞書の引き方を知らないのか、だったら、俺にお前の辞書をくれ」 と言われたことがありました。 確かに、今、こんなふうに言ったら。問題とされるのでしょう。しかし、ツールの使い方を知っていて、それを活用しないのは、阿呆と言われても仕方がないのでは、と思います。 もちろん、この場合、言葉の意味について、わかりやすいたとえや、説明をするのは、してもいいわけですけれども。しかし、そこにはその説明をする人の「解釈」がはいっているという「事実」をも忘れてはいけないわけです。 極論を言えば、「アクロイド殺し」みたいな話にもなるわけですよ。だまそうと思えば、だませる、みたいな。 肝腎なことは自身でも調べてみる、そして、その「調べた結果」にも「誰か」の手が加わっているのかも、とも感じてみるのも必要かな、と。 あと、別のところでも述べましたが、藝能界は「異形の者」「特異能力」の場であり、故に「差別」を受ける場合もあるのだ、とつけくわえておきます。 よしりん先生の「漫画家」という立場も、そうなのでしょう。「普通」の会社員とかのように社会を形成しているものでもないし、農民とかのように 「生きるために必要な」何かを生産したりしているわけでもない。「藝能」は場合によっては、そんなものなしでも生きてゆける。 しかし、それらがないと、「心」「精神」がまづしくなっていまう、病んでしまう、というもので、そこから励まされる場合だってある、と思います。SPA!やFLASHだったら。写真、グラビアとかでそういう感情を受けることもあるのかも、です。 「心の栄養」…とても重要なことではないか、と。 最後に、少し述べると。「どとーの愛」の最後、あれって、「機会性同性愛」の一例ではないのでしょうか? 何だか自分も調子にのって、あれこれ、記してしまったように反省します。まづは他者の意見や考えに耳を傾けましょう。疑問を尋ねるのは、「自分でも調べて」から。以上です。
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つまり、ジャニー喜多川氏に、「自分のしていることは男色文化の伝統があるからOK」みたいな意識があったかいなか、という証明をしてほしい、証拠を示して欲しいと出張されているわけですよね。
私はこれはジャニーという人の嗜好の問題で、彼が同性愛者だから、というふうに理解をし、「そういう趣味の人がいるんだなあ」で済ませてしまったのですが(これも、「自分の未知の領域」への「想像」なのですが)…違うのでしょうか?
AKBの場合は、秋元康がノーマルだから、なのでしょうが、それでも、性被害を強要されたら、訴えないといけないでしょう。女性には男性にはない「生理」という問題があります(生理的に受け付けない、というのとは異なります)。
そして、日本における、「能」とか「狂言」とか、「歌舞伎」とかの「成立過程」とかを考えると、「同性愛文化」はあるのだと「想像」されますし、ジャニー氏がそのことに無自覚だったとしても、「藝能」の「歴史」とか「雰囲気」とか「場」とかが、影響している可能性ひゃありかな、と。
さらにいえば、現代のマスコミがそのことに「無自覚」であるか、あるいはそれを「隠蔽」しようとしている、ではないか、と。
ここから先のことは、自身で調べることではないか、よしりん先生の手を煩わせるものでもない、と思います。昔、意味のわからない語を、小学校の先生に尋ねたら、
「お前は辞書の引き方を知らないのか、だったら、俺にお前の辞書をくれ」
と言われたことがありました。
確かに、今、こんなふうに言ったら。問題とされるのでしょう。しかし、ツールの使い方を知っていて、それを活用しないのは、阿呆と言われても仕方がないのでは、と思います。
もちろん、この場合、言葉の意味について、わかりやすいたとえや、説明をするのは、してもいいわけですけれども。しかし、そこにはその説明をする人の「解釈」がはいっているという「事実」をも忘れてはいけないわけです。
極論を言えば、「アクロイド殺し」みたいな話にもなるわけですよ。だまそうと思えば、だませる、みたいな。
肝腎なことは自身でも調べてみる、そして、その「調べた結果」にも「誰か」の手が加わっているのかも、とも感じてみるのも必要かな、と。
あと、別のところでも述べましたが、藝能界は「異形の者」「特異能力」の場であり、故に「差別」を受ける場合もあるのだ、とつけくわえておきます。
よしりん先生の「漫画家」という立場も、そうなのでしょう。「普通」の会社員とかのように社会を形成しているものでもないし、農民とかのように
「生きるために必要な」何かを生産したりしているわけでもない。「藝能」は場合によっては、そんなものなしでも生きてゆける。
しかし、それらがないと、「心」「精神」がまづしくなっていまう、病んでしまう、というもので、そこから励まされる場合だってある、と思います。SPA!やFLASHだったら。写真、グラビアとかでそういう感情を受けることもあるのかも、です。
「心の栄養」…とても重要なことではないか、と。
最後に、少し述べると。「どとーの愛」の最後、あれって、「機会性同性愛」の一例ではないのでしょうか?
何だか自分も調子にのって、あれこれ、記してしまったように反省します。まづは他者の意見や考えに耳を傾けましょう。疑問を尋ねるのは、「自分でも調べて」から。以上です。