希蝶 のコメント

 いちおう241の続きを記します(ご存じでしたら、よみ飛ばしてください)。

 南北朝時代・室町幕府創成期に、将軍の足利尊氏と、その弟で(幕府の実力者であり、実際に政治を行っていた)足利直義(ただよし)の間で、内乱が起こり、かわるがわる南朝に降服する、という事件がありました。これを「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」といい、その結果、尊氏が一時的に南朝と講和し、北朝を廃したのを「正平一統(しょうへいいっとう)」といいます。

 しかし、南朝は尊氏との約束を踏みにじり、北朝の元天皇やその後継者の皇子などを拉致し、南朝の根拠地の賀名生(あのう)に連れ去る、という事件が起こりました。

 困ったのは幕府で、「治天の君」と呼ばれる(実際に)院政を行っていた上皇すら、北朝側からいなくなったわけで、 三種の神器すら奪われた始末。やむなく、光厳天皇の生母である「広義門院」を「治天の君」ということにして、崇光の次子で、僧侶になる予定だった皇子を皇位につけました(後光厳天皇)。

 その後、光厳・光明・崇光上皇たちが解放された後も、皇位は後光厳→後円融→後小松→称光というふうに継承され、崇光の嫡流の系統は排除されました。称光崩御後、皇位継承者がいなくなったため、崇光上皇の子孫である伏見宮家から、後花園天皇が(あくまでも後小松上皇の準養子ということで)即位し、崇光天皇の系統にもどされた、という経緯があります。

 現在の皇統・皇族はすべて、この崇光天皇の子孫です。
 なお、伏見宮家は江戸時代に一度、断絶しかけて、第116代の桃園天皇の皇子である「定行(さだもち)親王」が養子にはいったことがありました。しかし、貞行親王は13歳で薨去し、その後を(伏見宮家出身で、僧侶になる予定だった)親王が還俗(僧侶をやめて実家の籍にもどること)して、その後、伏見宮家は(側室で)皇子をたくさんつくるようになり、それが明治の11親王家につながっている、というわけです。

 少し難しい、専門的な話を記しましたが、つまり、私はかつて、この問題は南北朝時代の結果、皇統が乱れたという話のように理解していた、という話です。

 …しかし、実際に、ツイッターなどに投稿された意見を見ると、あまりこういう話は出てこず、あくまでも「神武天皇の男系」とか奈良時代の「草壁皇子」とかいう話だったりするのです。正直、あれこれ考えすぎたのだ、と反省しました。

 ちなみに、親王家の継承で、女性があとを継いだのには「前例」があり、 桂宮家で、第120代仁孝天皇(孝明天皇の父親にあたります。すなわち、明治天皇の祖父です)の皇女である淑子(すみこ)内親王が継承した、という事例があります。「女性宮家」とは前代未聞のものではないわけです(ただし、内親王は未婚で、この後、明治14年の薨去後、桂宮家は(一度)断絶しました)。

 あと、(男系派のいう)神武天皇の事績が史実だとしたら、神武天皇が「名草戸畔(なくさとべ)」という和歌山県名草山あたりの女性酋長を斬り殺した、という記述があり(即位前紀戊午年6月1日条)、このことからも、古代においては女性もリーダーたり得た、という証明になるのですが…。

 それと、「続日本紀」などをよみますと、「女官」の地位や役割が大きく、中には名誉職として「国造」を与えられた人もいたりします(壬生小家主女〔みぶ の おやかぬしめ〕・尾張小倉〔おわり の おくら〕)。氏姓についても、女性に単独で与えられた例も多く、たとえば橘諸兄の母親で、光明皇后の母親でもある人に、県犬養橘三千代(あがたいぬかい の たちばな の みちよ)がおり、この人が「橘宿禰」を天皇から授けられたことが、橘氏の始まり、と言われています。このことからも、古代が男系・女系双方向の社会だったという証拠になります。

 という話をツイッターに記してみたこともあるのですが…男系派って、こういう話は「無視」するんですよね。もうすこし、学術的な話ができるのかな、とか思っていたものです。

 つまらぬ話をだらだら記しました。何かの参考になればいいのですが…あまり役立たないのかな?

 ということで、そろそろ生放送ですね。楽しみです。

No.249 17ヶ月前

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