希蝶 のコメント

 問題のライジング記事ですが、後で「だまされていた」というのは誰でもいうことができるのであって、また、「価値観」の話も、今年の「オドレら正気か」の放送でも述べられていたと記憶するのですが、私も井沢元彦さんの対談本で「ゴー宣」の存在を知り、「新ゴー宣7巻」を書店でみかけて購入しなかったら、と思うことがあり、その場合は今と大分違う状態だったのかな、と想像します。(今でもかなりそうですが)恐らくかなり偏向した考えで、ひとりよがりな世界をより築き上げていたのかな、と。
 以前、某校長先生の卒業式の子供をたくさん産め発言があった際、まだ投稿する勇気がなく、sapioに書面で解答を送ったこともあるのですが、あとでどうこう言うことは「結果」が出ているから簡単なことで、来年の大河ドラマになりますが、徳川家康にしても「関ヶ原」で勝利するための工作はしたかも知れないけれども、小早川秀昭や脇坂安治などが裏切るかどうかは最後まで自信はなかったろう、だから爪を噛む癖が出たりもしたのだろうと思います。誰しも確実な未来予測図は出せないわけです。
 あまり長くてもよむのに退屈してしまうだろうと思うので、この程度にしますが、私は「フィクション」とは「(ある限定された情況下で)起こるかも知れない出来事・設計図」であり、「ノンフィクション」とは「(既に成立してしまった情況の中で)起きてしまったことであり、なおかつ、それと同じような、あるいは似たような情況下で起こるかもしれない教訓を含んでいるもの」というふうに感じています。これも極端な見方なのかもしれないけれども、人間のすること、考えること、起こすことは実は共通しているのかも(笑)。

 木蘭さんの「起請文」の件、自分の無智を曝け出すようですが、今度図書館で原文を捜してみます。上記の話と重なりますが、自分の場合、「これはどうじゃなきゃいけない」と自分の我を張ってきたわけなので、村八分状態の方が長く、世間からの爪弾き状態の方が長かったのかな?自虐はよくないですね(笑)。
 世間と社会は違うという観点、なるほどです。以前、不二子という殺人者が環境によって形成されてゆく話をよんだことがあるのですが、あの話、まさしく「世間」に受け入れられたいが為の悲劇ですよね(未読だったら、すみません)。

 というところです。ではでは。

No.26 16ヶ月前

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