希蝶 のコメント

 本当に、毎度のことながら、ぎりぎりですね(今回は内視鏡検査もあったのだけれども…。個人的な話でした)。

〇 ゴーマニズム宣言・第478回「権力者を“権威”にする国葬は必要ない!」
 少し思い出した話を。確か、大和時代の敏達天皇が崩御した際に、殯(もがり)の宮で蘇我馬子と物部(弓削)守屋が、お互いの弔辞(誄[しのびごと]と古語ではいいます)を言う様を見て、悪口を言い合ったという話があります。

守屋「(馬子が大刀を身に付けて誄を述べるのを)猟箭(ししや)を負っている雀のようだ」(つまり、矢鴨みたいな感じだ、というのでしょう、少したとえが古いかな?矢鴨は残酷ですが…)
馬子「(守屋が誄を述べる際にがくがくふるえているのを)鈴をつけるべきだろう」(さぞかし、鈴がたくさん鳴って興味深いことになるだろう)

 ちなみに、敏達の次が用明、崇峻、それから推古天皇で、聖徳太子は用明の皇子です。

 それはさておき、弔問の場とは、故人を悼むのが第一義のようでいて、実際は弔問客同士の社交の場なのだな、と上記のエピソードと、今回のライジング記事を読んで思いました。葬儀の際に、遺体の焼却が終わるまで、待合室みたいなところで会葬者が集まって、食事をしたり、話をしたりいたしますが、そこで語られることは故人の思い出であると同時に、会葬者同士の近況だったり、噂話だったりするわけです。何を当たり前なことを、と感じられるかも知れませんが、菅元首相が安倍の優しい微笑みとか口にしたり、グラビアモデル候補(?)の三浦瑠麗さんがああいう喪服を着たり、インスタにアップする心理も、とどのつまりは葬式が社交だという認識から生まれていると思うのです。
 未読ですが、芥川龍之介の小説に「枯野抄」があります。そこでも芭蕉の臨終の際の弟子達の内心の声が描かれているそうで、人間は師匠の臨終の時でさえ、エゴイストなのかな、と。勿論、それだけではないのでしょうけれども。
 天皇陛下の葬儀や、偉人や師匠の最期ですらそうなのだから、ならば国葬なんて仰々しいことなどせず、その人を信奉する人たちだけで、故人を懐かしむというのが最適なのだろうと思いました。
 国葬なら、それに見合った業績があると、それこそ臨時国会で審議しないと、駄目でしょうね。あるいは、法律で定義を決めないと。何となく立派そうなので、国葬にしよう、では日本人の一番悪いところが出てきているような感じがします。

 もう少し。聞いた話によると、イギリスのヴィクトリア女王は首相グラッドストーンの死に対し、「悲しくないのに、どうして悲しまないといけないのかしら?」と発言したそうです。私はアヘン戦争に反対したグラッドストーンは好きな方の人物なのですが、案外、女王の発言の方が的を射ているのかも知れないです。もう少し、イギリス史を調べてみないといけないのかも。

No.377 26ヶ月前

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