希蝶 のコメント

 すみません、ゆっくり読んでいたので、こんな時間になりました。職場でダウンして、休んだりもしたのですが、無理をしては駄目ですね…。

 今号の記事、よしりん先生の方も、木蘭さんの方ももの凄く書きたいことがあるのですが、非常に長くなりそうなので、改めて。
 しゃべクリですが、採用して下さり、有り難うございます。今度、映画を見ようかと思っていますが、時間がとれなくて…。TVアニメ版も、一通り見ておきたいです。実写版も合わせて。
 柿野君が不憫なので投稿した没ネタでしたが、前号の心霊写真のかたのもので、カバーできていますね。それよりも、今回のはみなさんのネタが凄くて…とりわけ最初。こういうふうにやるんですね。参考になりました。

 ということで、今号のSPA!の感想を記します。ツイッターにも簡単に記しましたが、本当に、玉川徹と橋下徹の2人は、欧州史から、日本古代史まで勉強し直した方がいいのではないのでしょうか? 恐らく2人とも、「こいつと一緒にするな!」と抗議をするのでしょうが、「五十歩百歩」ということわざはこういう場合に使うものでしょう。これに比べれば、「たいものれい」の三浦瑠麗さんでさえ、まだ免罪されます(あれだって、漢語と和語の構造を理解すればいいだけのこと。ついでながら言っておくと、『喪』の場合は「そう(サウ)」が音で、「も」が訓。「服喪」の場合は重箱読み、「喪服」の場合は「湯桶読み」です。さらにいうと、『絵』という漢字の場合は、「くゎい(kwai)」と「ゑ(we)」で、どちらも音読みなのです。私が歴史的仮名遣いを推奬する理由は、こういうところにもあるのです)。
 上記のことが分からないかたは、あとで漢和辞典を見てみてください。別にすぐに理解できなくてもいいです。気づいたら、仰天することでしょう。「会」もそうですよ。
 脱線がすぎました。話をもどします。まず、東洋史の例をあげます。

① かつて朝鮮半島には高句麗(こうくり)、あるいは高麗(こま)という国と、百済(ひゃくさい、くだら)という国がありました。あるとき、高麗は百済を攻め、首都を陥落させました。大和朝廷と親しい百済政府は、大和朝廷に、失地のかわりに大和朝廷の支配下にある任那(みまな)(昨今の教科書では「加羅(から)」と記されています)という地域から、4つの地域を譲渡してくれないか、と頼みました。当時の大和朝廷を牛耳っていた大伴金村(おおとも の かなむら)は(賄賂を貰ったと言われていますが)、それを受け入れました。
② すると、今度は同じ朝鮮半島に存在する新羅(しんら、しらぎ)という国が、同じく任那の一部地域をよこせ、と言いました。さすがに大和朝廷は拒絶しましたが、新羅は軍事力でこれをかすめとりました。それらのことがきっかけで、金村は失脚しました。
③ そして、欽明天皇の時に任那地域は百済・新羅に分割されて消滅しました。

 いちおう、大和朝廷のために言っておくと、その後も、百済や新羅から「任那の調(みつぎ」という税のようなものを取り立ててはいます。『日本書紀』のいうことをどこまで信用すべきか、という問題はありますが、恐らくこの地域に倭国が支配的な地位にあったのは確かでしょう。推古天皇・聖徳太子の記事にすら登場するのだから。

次に欧米史です。

Ⅰ 東欧のポーランドという国は、かつてはリトアニアという、旧ソ連邦の一部だった国と連合王国を築いていました。さらにいうと、ウクライナ、ベラルーシの一部をも含んでいました(クライテリオン識者が、ウクライナをポーランドにも渡せと言っているのは多分それが原因でしょう)。そして、世襲王家が断絶した後、選挙王政といって、貴族の選挙で国王を選ぶようになりました(ドイツの、神聖ローマ皇帝と同じですね)。
 さて、あるときロシヤの女帝エカテリーナ2世の愛人だった貴族がポーランド国王に立候補し、エカテリーナの支援を得て国王に当選しましたが、その代償として領土をロシヤによこせということで、さらにこれに便乗し、ドイツのプロイセンと、神聖ローマ帝国を継承しているオーストリアのハプスブルク家も領土をくれということになりました。それが第一次ポーランド分割です。
 その後、フランス革命とかで第2次、第3次ポーランド分割が行われ、ついに18世紀末から19世紀初頭には、ポーランドという国は地図上から消滅しました。これを気の毒に思ったのか、フランス皇帝ナポレオンは「ワルシャワ大公国」というフランスの属国を作ってくださいましたが、それもナポレオン失脚後のウィーン会議で取り消され、「ポーランド立憲王国」というロシヤ皇帝が国王を兼ねる、いわばロシアの属国が形成され、やがてそれも取り消しになり、ポーランドがロシヤの一部になって、20世紀の第一次世界大戦後までポーランドは消滅しました(かつてはロシヤを征服するほどの力があった国なのに…)。
 第一次大戦後には、ソ連邦の混乱期に、ポーランドはベラルーシ、ウクライナの一部を征服しているのですが、それもヒトラーやスターリンによって同じく分割され、またもや地図上から消滅しました。第二次世界大戦後、ベラルーシ、ウクライナの一部はソ連側に残され、ポーランドはかわりにドイツ(プロイセン)のシュレジエン、プロイセン地域を領土に加えるということで妥協しました。これが現状です。

Ⅱ ついでにシュレジエンという地域のことを説明しますが、ここは実はボヘミア王国、つまりチェコの母体となる国の領土でした。その後、ボヘミア王国をオーストリアのハプスブルク家が継承することになり、シュレジエンも領域に加えたのですが、プロイセンにフリードリヒ2世という軍事の天才ともいわれる国王が現れ、ハプスブルク家に男子継承者がないという(今の日本に似たような)事態が発生したため、それを口実にプロテスタントの多いこの地域をプロイセンによこせということで侵掠戦争を起こし、結果、プロイセンがシュレジエンを領有しました(オーストリア継承戦争)。オーストリアもこれに手をこまねいていたわけではなく、当時の君主であるマリア・テレジアは、外交革命といったかつての敵国フランスとも組んで、シュレジエンを取り返そうとして、成功寸前まで行ったのですが、とある事情で(説明すると長くなるので、ここではやめておきます)失敗し、結果、シュレジエンはプロイセン王国の主要地域となりました(七年戦争)。このプロイセンが現代のドイツの母体です。
 シュレジエンがポーランドのシロンスク地方となっている事情は上述の通りです。なお、この話は愛子様の話とも比較できるのであげてみました。

Ⅲ そのチェコですが、「チェコスロヴァキア」という名前からして東欧の国と誤解されるのですが、実は長いことドイツの神聖ローマ帝国の主要な形成国で(分かりやすくいうと江戸幕府みたいなものが神聖ローマ帝国で、その中に大名が治める「藩」みたいなものがあるのだ、と理解して下さい)、スロヴァキアは民族が共通していますがどちらかというと、ハンガリーの一部であり、こちらこそ東欧で、地域区分が異なっていました。
 のちに、ハンガリーをオスマントルコが征服し、その後、オーストリアのハプスブルク家が奪還し、オーストリアと一体化したため、あたかも「チェコスロヴァキア」というまとまった地域であるかのように錯覚してしまうのですが、実態は別々です。だから、オーストリアとハンガリーも実は同君国で、別々の政府を持っている国です。これも蛇足のようですが、次の話が理解できなくなるので、あげておきます。

Ⅳ さて、チェコに、ドイツ語では「ズテーテンラント」と呼ばれるドイツ人居住地区がありました。ドイツ人居住地区がある事情は上述の通り、チェコはドイツと共通の歴史を持つからです。
 この地域は第一次世界大戦後の「チェコスロヴァキア独立」後にチェコの領土としてオーストリアから独立しましたが、それをナチスドイツがドイツ人が多いからとよこせと言ってきました。チェコスロヴァキア側は抵抗しましたが、仲介役にあたった当時のイギリスの首相、ネヴィル・チェンバレンはヒトラーをおとなしくさせるために妥協をし、ズテーテンをナチスに渡すことを同意し、チェコ側も妥協しました。
 その後、ナチスはチェコも支配下におき(かつての神聖ローマ帝国領域だから)、そして残されたスロヴァキア側はナチスと組んだハンガリー王国の属国となりました。第二次世界大戦が終わるまで、この状況が続きました。

 以上、おおまかな(どこが!)話をしてみましたが、要は国家が妥協して領土を他国に渡すと、国家存亡の機が訪れる場合もある、という例でした。記憶で記したので、固有名詞や出来事などについて、かなり思い違いがあるやもしれません。興味がわいたかたは自分でも調べてみて下さい(それとも、こういう話は周知の事実でしょうか?)

 以上をW徹などが理解できればいいのですが…無理かなあ?長文ですみませんでした。

No.41 29ヶ月前

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