希蝶 のコメント

 今回、もう少し記したいことがあります。Q&Aで歴史記述の問題がありましたが、私なりの意見を述べます。よしりん先生の回答とは比べものにはならないかもしれませんが、参考になれば幸いです。

 支那に隋(ずい)という国が古代存在しましたが(聖徳太子や小野妹子の「遣隋使」でも有名ですね)、煬帝(ようだい)という暴虐な君主が現れ、せっかく分裂状態だった「中国」を統一したのに、台無しにして国は滅亡しました。煬帝の悪行として一般に言われていることの一つとして、父親の文帝を殺したというのがあります。
 実は煬帝は元々文帝の皇太子ではなく、お兄さんが皇太子でした。しかし、母親の独孤伽羅(どっこから)皇后に取り入り、兄の非行を暴き立て、代わりに皇太子になったという経緯があります。
 隋の歴史を記述した「隋書」には、本紀(皇帝の所行や歴史上の出来事を記述したもの)では文帝は病で自然死し、後のことを煬帝らに託したとなっています。しかし列伝(家臣などの生涯や行いを記述した伝記)によると、煬帝は母親のみならず、文帝の側室に取り入って皇太子交替を仕組んだことになっており、その側室、すなわち父親の愛人に手を出そうとしたため、父である文帝が怒り、兄を皇太子にもどすと宣言したため、やむなく腹心の家臣を用いて父親を暗殺した、となっています。一般にはこちらの方が有名です。

 しかし、この話の変なところは、文帝は正室の独狐夫人の、いわば尻にしかれており(北周から国を乗っ取る助言をしたのも皇后です)、皇太子の件は皇后のご機嫌を取れば良かったわけです。煬帝が父を殺したとされる頃には皇后は病死しておりましたが、何故に文帝、父親の愛人まで買収する必要があったのでしょうか?
 さらに、文帝崩御の際にそばにはべっていた煬帝の腹心も、あとになって煬帝に苦言を呈したため、処刑されたというような硬骨の士でもありました。まずもって、先代の皇帝を暗殺するのに加担するような人格ではなかったわけです。
 ということが、常識で考えても分かるわけです。恐らく煬帝の父殺しは「流言飛語」によって作られたものであろうと。それは煬帝が隋という国を滅ぼした暗君だったから、となるわけです。

 もう一例あげます。同じく支那の明末に李自成(りじせい)という盗賊がおり、明を滅ぼしたのは清ではなく、李自成政権で、のちに清軍に李自成が敗北するという経緯をたどっています。
 この李自成には李巌(りがん)という軍師がいたことになっており、「明史」にもそのように記述されていますが、結論をいうと、実はこの人物は架空の存在だそうです。
 なぜその事が分かるのかというと、李巌の話に登場する悪徳県令は「宋」という氏なのですが、明末に「宋」という県令がいたか、ピックアップし、その人の生涯は無事任期満了で天寿を全うしている、また、その時代の県令で殺された人はいない、といったことを確かな史料で調べる、ということをした結果だそうです。

 これらは高島俊男という学者の書籍に記されていることですが、「史料校訂」とはこういうことをするものです。すなわち、常識で考えて分かること、あるいは二つ以上の史料をつきあわせて確認するといった作業が必要とされます。考古学的なことも必要とされるでしょう。
 さらに(ここからは自分があげるものです)『日本書紀』につづく、『続日本紀』をあげてみますが、実は『続日本紀』全40巻の最後の10巻分は光仁天皇とその息子である桓武天皇の前半期(平安遷都以前)の記述にあてられています。『続紀』の編纂については三つの時期があると言われていますが、最終的には桓武天皇の意向が大きかったのでしょう。桓武天皇を顕彰するためには、父親の光仁天皇の事績を述べなければならない、そのためには前代の称徳天皇のことをおとしめなければならない、となるわけです。『続紀』には光仁天皇が廃帝とされ、島流しの結果、謎の死をとげた淳仁天皇の墓を「陵墓」とし、遣唐使の応対に苦慮したとか、生き残っていた姉たちの訪問をし、その薨去に際して喪に服したという記述が多いのですが、(多分事実でもあるのでしょうが)上述の意図で描かれたことだろうとも想定されるわけです。
 あと、この時代の史料としては「木簡」や「東大寺文書」などがあり、それと照らし合わせることも可能です。
 『日本書紀』にも山背大兄王と田村皇子(のちの舒明天皇)が推古天皇の遺言をめぐり、争ったというリアルな記述があり、恐らく何らかの記録があって、それを参考に編纂されたという事情もあったのでしょう。そして、編纂する側の都合のよいように記されたのかも知れないです。
 同じく、雄略天皇の記述を読むと、よしりん先生が過去にとりあげた「韋那部真根」(いなべのまね)の話などもありますが、天皇が半島に兵を派遣したという記述が目立ち、そのことは朝鮮半島の「三国史記」にも倭の軍隊の交戦の記録として記述されていて、おそらくこれも史実なのだろうと推定できるわけです。雄略天皇には吉備上道田狭(きびのかみつみちのたさ)という豪族の後妻を奪ったという話もあり、そこから生まれた皇子を巡って皇位継承争いもあったという話もあって、これも吉備氏か、その叛乱を平定した側の記述があったのだろうと推測されます。

 長々と述べましたが、「史料校訂」とはこういうことをするものだ、ということを分かっていただけたら、と思いました。あまりシンプルな話になりませんでしたし、私もそんなに詳しいわけではないのだけれども。

No.141 29ヶ月前

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