こりゃ馬 のコメント

>>118 の続き。
首皇子、聖武天皇は、和銅7年6月に(714年に)、皇太子になられています。

持統天皇は、皇太子草壁皇子の薨去の後、皇子の母うのの讃良皇后(うののは、盧へんにつくりが鳥に、野)が即位なされた。
元明天皇は、子・文武天皇が崩御された後、即位なされました。
元正天皇は、聖武天皇の伯母にあたり、既に首皇子が皇太子になられていたが、元明天皇は、娘で文武天皇の姉君にあたる氷高皇女に譲位。元正天皇として即位なされました。
光仁天皇は立太子されておりますが、称徳天皇が崩御されたその日に策定され、二か月後に即位なされました。
光孝天皇、百人一首で知られる天皇は、同じく百人一首で知られる陽成天皇が藤原基経らによって廃位された後、基経らに擁立されて即位しました。
後白河天皇は、前代・近衛天皇の崩御の後、皇位を巡る争いの中で即位され、鳥羽法皇崩御後、すぐに保元の乱が起こりました。
六条天皇は、父・二条天皇が23歳で崩御する直前に御生誕8か月(数え年で2歳)ほどで親王宣下をお受けになり、その日に即位なされました。
土御門天皇は、父・後鳥羽天皇が突然、譲位を表明したため、数え年4歳で即位なされました。
後堀河天皇は、承久の乱の余波で、鎌倉幕府によって擁立、即位されました。
後嵯峨天皇は、順徳天皇の皇子を天皇にすることを嫌った鎌倉幕府が、土御門天皇の皇子である邦仁王を擁立したので、後嵯峨天皇として即位なされました。
長慶天皇は、長らく御即位の事実が判明せず、皇統譜に書き加えられたのは大正15年10月、昭和改元の僅か2か月前のことでした。
北朝第二代・光明天皇は、湊川の戦いで勝利した足利尊氏によって擁立され、天皇に即位しました。
北朝第四代・後光厳天皇以降は、南北朝動乱の折、財政逼迫などで、立太子礼が行われず、南北朝時代が終わった後、第百代後小松天皇の御代になっても、立太子礼は復活せず、江戸時代、霊元天皇が立太子礼を再興することによって、霊元天皇の皇子である東山天皇の親王時代に、ようやく立太子礼が復活しました。
後桜町天皇は、弟宮が桃園天皇として即位なされたものの、崩御されたので、桃園天皇の皇子が天皇として即位するまでの間、皇位を嗣ぐことになり、天皇に即位なされました。
光格天皇は、立太子礼というよりは、儲君に治定されたということで、後桃園天皇が若くして崩御された直後、皇位を嗣ぐことが決まり、およそひと月後に即位なされました。

これらの方が、立太子礼を経ずに天皇に即位なされた方です。
わたしの心得違いが無ければ、おそらくそうであると思いますが、万が一心得違いが有れば、ご指摘のほどよろしくお願いします。

No.121 30ヶ月前

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