<憲法とかコロナとかウクライナとか> うさぎです。憲法やコロナやウクライナについて考えていたら、乱暴な言葉があふれでてきました。以下、狂いうさぎの書き付けです。 ******************** そもそも9条2項の「戦力を持たない」とか「交戦権を認めない」とかの文言は、敗戦直後の占領期に出てきた妄言の類だ。妄言は一刻も早く正さなければならなかったのに、それがぐだぐだと今日まで放置されてきた。 敗戦のわずか数年後には、日本は戦車や戦闘機や戦艦の軍備を開始した。9条と現実との間に、子供でも分かる矛盾が発生した。しかしその矛盾は、そこで作られているのは「軍隊」ではなく「自衛隊」だという詐欺まがいの言辞によって、解決されることなく放置された。 9条問題とコロナ騒動は、どこか似ている。「戦争」とか「軍隊」という言葉を用いなければ、日本が侵略戦争(大義のない戦い)をすることはないという妄想。同じように、いつでもどこでもマスクをすれば、感染は抑えられるという妄想。何の根拠もない、迷信のような思い込み。日本人はそうした妄想に、だらだらと何年も、何十年も浸ろうとする。妄想だと気づいていても、やめられない。思考停止、惰性、まどろみ、和を乱すことへの本能的な怖れ。 今、憲法を改正すべきだと主張する人たち、9条2項は削除すべきと主張する人の中にも、「軍隊」という言葉は用いる必要はない、とか、「個別的自衛権はよいが集団的自衛権はだめ」とかいう人たちがいる。馬鹿げたことだ。それは、何に対しての、誰に対しての配慮なのだろう。そんな配慮は、いらない。 9条の精神は大切、日本の平和主義の精神は特別、などと言って、9条の妄言を根底から正そうとしないのは、間違いだ。それはあたかも、どうしても「クスリ」をやめられないと言う中毒患者に、少量の「クスリ」を続けるのを許しながら、その中毒を治療しようとするようなものだ。 王道は、シンプルだ。日本は軍隊を持つ。戦争をする。国を守るためには、領土・領海に侵入してきた敵部隊だけでなく、敵国の基地や作戦本部も攻撃する。海外の小さな友好国が強大な覇権国家によって不当に侵略されているなら、軍隊を送り込んで友好国とともに戦う。当たり前のことだろう。戦うべき戦争に、個別的も集団的もない。 王道はシンプルだ。大義のある戦いであれば、日本は当事者にならなければならない。大西郷ならそう言うだろう。大義のために戦うこと、それが本当の平和主義だ。世界の平和のために、戦争をすることを覚悟する国、相手と自分の血を流すことを覚悟する国、それが平和主義国家だ。 日本が歴史に学ぶべきことは、「戦争をしないこと・軍隊を持たないこと」ではない。そうではなく、ある戦争に大義があるかないか、その当事者となることは適切か否かを、国民が活発に議論できるような自由な空間を確保すること。同調圧力によって、自由な言論を封殺しないこと。それが先の大戦に対する反省の第一だ。斎藤隆夫の粛軍演説みたいなものが、封殺されない社会。 そういったことを条文に盛り込んだ、真の平和憲法を作らなければならない。 こういうことを言うと、おつむのよさそうな政治家とか憲法学者たちが、そんなのは理想論だ、現実を知らない観念論だ、などと、ぐだぐだ言うはずだ。阿呆。ヤク中を救うには、ヤクを完全に断つしかないのは、自明のことだろう。ヤク中に気を使ってどうする。 核兵器については、核兵器が悲惨なのではなくて、戦争・紛争が悲惨だということ。ルワンダ内戦で100万人が虐殺された。女も子供も老人も。そこで用いられたのはマチェテ(山刀)だった。核兵器を打ち込んで10万人が死ぬ事態は非人道的だが、マチェテを振り回して100万人が虐殺されるのは、まだ容認しうるということか。核兵器は特別だ、原爆の犠牲になった私たち日本人は平和を論じるにあたって特別な地位にある、なんていう言説は、アフリカであれ中東であれ中南米であれ、核兵器以外の武器でヒロシマ・ナガサキ以上の規模の地獄、本当に地獄、を見てきた人々には、何の説得力も持たない。 ***************** 以上、暴発うさぎでした。
チャンネルに入会
フォロー
小林よしのりチャンネル
(ID:88593779)
<憲法とかコロナとかウクライナとか>
うさぎです。憲法やコロナやウクライナについて考えていたら、乱暴な言葉があふれでてきました。以下、狂いうさぎの書き付けです。
********************
そもそも9条2項の「戦力を持たない」とか「交戦権を認めない」とかの文言は、敗戦直後の占領期に出てきた妄言の類だ。妄言は一刻も早く正さなければならなかったのに、それがぐだぐだと今日まで放置されてきた。
敗戦のわずか数年後には、日本は戦車や戦闘機や戦艦の軍備を開始した。9条と現実との間に、子供でも分かる矛盾が発生した。しかしその矛盾は、そこで作られているのは「軍隊」ではなく「自衛隊」だという詐欺まがいの言辞によって、解決されることなく放置された。
9条問題とコロナ騒動は、どこか似ている。「戦争」とか「軍隊」という言葉を用いなければ、日本が侵略戦争(大義のない戦い)をすることはないという妄想。同じように、いつでもどこでもマスクをすれば、感染は抑えられるという妄想。何の根拠もない、迷信のような思い込み。日本人はそうした妄想に、だらだらと何年も、何十年も浸ろうとする。妄想だと気づいていても、やめられない。思考停止、惰性、まどろみ、和を乱すことへの本能的な怖れ。
今、憲法を改正すべきだと主張する人たち、9条2項は削除すべきと主張する人の中にも、「軍隊」という言葉は用いる必要はない、とか、「個別的自衛権はよいが集団的自衛権はだめ」とかいう人たちがいる。馬鹿げたことだ。それは、何に対しての、誰に対しての配慮なのだろう。そんな配慮は、いらない。
9条の精神は大切、日本の平和主義の精神は特別、などと言って、9条の妄言を根底から正そうとしないのは、間違いだ。それはあたかも、どうしても「クスリ」をやめられないと言う中毒患者に、少量の「クスリ」を続けるのを許しながら、その中毒を治療しようとするようなものだ。
王道は、シンプルだ。日本は軍隊を持つ。戦争をする。国を守るためには、領土・領海に侵入してきた敵部隊だけでなく、敵国の基地や作戦本部も攻撃する。海外の小さな友好国が強大な覇権国家によって不当に侵略されているなら、軍隊を送り込んで友好国とともに戦う。当たり前のことだろう。戦うべき戦争に、個別的も集団的もない。
王道はシンプルだ。大義のある戦いであれば、日本は当事者にならなければならない。大西郷ならそう言うだろう。大義のために戦うこと、それが本当の平和主義だ。世界の平和のために、戦争をすることを覚悟する国、相手と自分の血を流すことを覚悟する国、それが平和主義国家だ。
日本が歴史に学ぶべきことは、「戦争をしないこと・軍隊を持たないこと」ではない。そうではなく、ある戦争に大義があるかないか、その当事者となることは適切か否かを、国民が活発に議論できるような自由な空間を確保すること。同調圧力によって、自由な言論を封殺しないこと。それが先の大戦に対する反省の第一だ。斎藤隆夫の粛軍演説みたいなものが、封殺されない社会。
そういったことを条文に盛り込んだ、真の平和憲法を作らなければならない。
こういうことを言うと、おつむのよさそうな政治家とか憲法学者たちが、そんなのは理想論だ、現実を知らない観念論だ、などと、ぐだぐだ言うはずだ。阿呆。ヤク中を救うには、ヤクを完全に断つしかないのは、自明のことだろう。ヤク中に気を使ってどうする。
核兵器については、核兵器が悲惨なのではなくて、戦争・紛争が悲惨だということ。ルワンダ内戦で100万人が虐殺された。女も子供も老人も。そこで用いられたのはマチェテ(山刀)だった。核兵器を打ち込んで10万人が死ぬ事態は非人道的だが、マチェテを振り回して100万人が虐殺されるのは、まだ容認しうるということか。核兵器は特別だ、原爆の犠牲になった私たち日本人は平和を論じるにあたって特別な地位にある、なんていう言説は、アフリカであれ中東であれ中南米であれ、核兵器以外の武器でヒロシマ・ナガサキ以上の規模の地獄、本当に地獄、を見てきた人々には、何の説得力も持たない。
*****************
以上、暴発うさぎでした。