さて、国際法は紛争における善悪を宙づりにしない、つまり「どっちもどっち」で国際社会が見て見ぬふりをしないための知恵でしょう。それにも拘らず、善悪の宙づり、価値判断の保留こそが何か知的で高尚であるかのように語る人たちがいる。ウクライナ侵攻のような明々白々たる侵略行為にすら善悪の判断ができないというのは価値相対“原理主義”というべき有様で、それが我が国で許されているのは、どうせ米国が守ってくれるという甘えがあるからではないでしょうか。ウクライナを見れば分かるように、「防衛戦争は善である」という大義がなければ、諸外国の支援は得られず、従って国民は虐殺か隷属かあるいはその両方の結末を待つほかなくなります。 国際紛争においてどちらが善かという位置づけは、それ自体が武器なのです。その武器を弱小国から冷酷に取り上げながら、自分はどちらの味方もしませんとか、通るわけがありません。数少ない、しかし最も有効である武器をウクライナから取り上げてまで追求したいことがあれば別ですが、まさかそれが「自分は大衆よりもモノが分かっているぞ」という矮小なプライドの満足だけだったりするならば、その精神構造はプーチンや金正恩のそれに近いものだと述べる他ありません。
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小林よしのりチャンネル
(ID:19522841)
さて、国際法は紛争における善悪を宙づりにしない、つまり「どっちもどっち」で国際社会が見て見ぬふりをしないための知恵でしょう。それにも拘らず、善悪の宙づり、価値判断の保留こそが何か知的で高尚であるかのように語る人たちがいる。ウクライナ侵攻のような明々白々たる侵略行為にすら善悪の判断ができないというのは価値相対“原理主義”というべき有様で、それが我が国で許されているのは、どうせ米国が守ってくれるという甘えがあるからではないでしょうか。ウクライナを見れば分かるように、「防衛戦争は善である」という大義がなければ、諸外国の支援は得られず、従って国民は虐殺か隷属かあるいはその両方の結末を待つほかなくなります。
国際紛争においてどちらが善かという位置づけは、それ自体が武器なのです。その武器を弱小国から冷酷に取り上げながら、自分はどちらの味方もしませんとか、通るわけがありません。数少ない、しかし最も有効である武器をウクライナから取り上げてまで追求したいことがあれば別ですが、まさかそれが「自分は大衆よりもモノが分かっているぞ」という矮小なプライドの満足だけだったりするならば、その精神構造はプーチンや金正恩のそれに近いものだと述べる他ありません。