夜半に失礼します。(個人的な事情ですが、今日は仕事なのだけれども) 先日記した愚痴、便所落書き(>>183)について、さらに感じたことを記します。 実は私はその一方的に笑った人たちについて、その時は「なんか芝居ががっているな」というふうに感じたのですが、その人たちは本当にコロナウイルスを「怖がっている」のだと気づきました。そこのところが私には分からないのです。確かに「ライジング」などを読み、「SPA!」で「コロナ論」の連載を読んで、その内容に納得して恐怖感が払拭されていたからでもあるのですが、自分にとっては、早い話が「ほかの人間より恐ろしいものはない」という感じなんです。 いろいろ言いたいこともあるのですが、その怖がっている人たちの自分への応対、反応からしても分かると思うし、得体の知れない業者の訪問とか電話とか、結構怖い話はあったりするのです。そんなの当たり前、とおっしゃられるかたも多いのでしょうが、インターネットであるサイトを覗いていたら、いきなり電話番号とかメールアドレスとかを訊ねてくるのもあるのではないか、と思います。私はそれでメールアドレスを抛棄したこともあります。 就職関連でもかなりあるかな。詳しくは記せないけれども。学生の時も、教科書を隠されて、トイレに捨ててあった、なんてのも。つまり、私がいじめられっ子だったということで、そういうことを言うと、「被害者ぶってる」とか「過去の経験をいうことで、自らを正当化している」とか。有り体に言って、ここの書き込みをしているかたは(トッキーさんに消される一部のアンチを除いて)その内容からかなり信用していますが、投稿内容を吟味し、慎重であろうとは思っています。なかなかそうはなりきれない部分もありますが。 話を大きくすると、男系派とか親ロシア派とかも、「何かを信じ込んでしまっている人たち」であり、こちらの言うことに先入観を持ってしまっている「怖い人たち」かも知れないです。 とにかく、私にとっては、未知の病原体がどうこういう以前に、人とのつきあいかたの方が課題だ、ということです。そのことも踏まえて、以下、今号の感想です。 〇 ゴーマニズム宣言・第459回「マスクは子供の虐待である!」 マスクをずっとつけていると大人の表情が分からなくなり、コミュニケーションができなくなる、というくだりで、自分がきょうだいから「あなたは小さい時におもてで遊ばなかったから、かわっています。それを今から是正するのは不可能で、手遅れです」と言われたことを思い返しました。かなりきついことを言われていますが、ある意味で的を射ており、たとえは悪いかも知れないけれども、マスクのために人の考えていることが読み取れない人間が大量に生まれてしまうのかと思うと、空恐ろしい気分になります。以上は極端なたとえですが、人のことを理解するには、引っ込み思案で閉じこもっていては駄目で、人と接し、会話をしなければならないというのは真理だろうと思います(こういう書き方をするから、先述のように「正当化している」という意見が出てくるのでしょうか)。 あと、今回の内容に関連してですが、昨日、「辻説法」第5巻を購入したのですが、雑誌連載当時、「コクハラ」の項目で身につまされるものを感じたことを思い出しました。(以前にも記したのですが)あったんですよね、実際にそういうことが。私の場合は何とか普通の関係にもどそうとしてあれこれやったのですけれども、周囲からはみんな「その相手への嫌がらせ」と取られ、「環境を悪化させている」と一方的に言われたものです。「相手はお前との関係をもどそうとは考えていない。彼女にとって、大事なのはつきあっている相手のことだけだ」とか。とどのつまりはこれも「人の感情を読めない」ということにつながっているわけで、幼児体験はとても重要だということになるのでは、と思うのですが…こういう話は不適切ですか?こういうところからも「人間は恐ろしい」という先の言葉につながるのです。 西城秀樹の歌に「心にボタンをかけたままで男と女は愛せない ボタンを外せ ボタンを外せ ボタンを外せ(この部分、昔は「がいせ」と誤読したものです)心を見せろ」とありますが(古いですね)、ボタンをマスクにかえても十分通じる歌です。私たちがマスクから解放されない限り、マスクを捨て去らない限り、こういう状態になるのでは、と危懼いたします 最後に、「MUGO・ん…色っぽい」、懐かしいです。さらに古くなるけれども別のかたの歌で「くちびるルード」なども思い出しました。 〇 泉美木蘭のトンデモ見聞録・第253回「“遷延する症状を訴える方”~厚労省のごまかしとワクチン後遺症」 また変な言葉が出てきましたね。「遷延」…司馬遷かと思いました。「のびのびにすること、ながびくこと。また、のびのびにすること」って、野比のび太ですか?!つまりワクチン接種後に「のびのびになる」後遺症があって、そのことについてワクチンは「そんなの関係ねえ、そんなの関係ねえ、そんなの関係ねえ」とでも厚生労働省は主張したいのでしょうか。ついでに「オッペケペエ」ぢゃない、「オッパッピー」とでも言えばいいではないですか。 下品な言い方をしましたが、言葉というのは色々な風に表現できて、言い換えも可能で、ごまかしをすることもできるのかな、と思いました。しかし、こういうのは姑息で、一時しのぎでしかないです。ただの「言葉遊び」です。先の書き込みで、昔の哲人や文学者の述べた言葉には価値がある、難しいものを難しいままに理解するのも大切だ、と述べましたが、それはやはり歴史を経て、人智を尽くした言葉だから古今東西において意味があるということで、どこかのお役人が当面の対応として案出したものはそのレベルには達してはおりません。「始めに言葉ありき」とか言いますが、言葉は智慧であり、文字は正しく情報を伝えるものでなければならない、と思います。 木蘭さんがあげられていた、新生児や妊婦を通してのワクチン症状の話も、これまでたくさんこの場でも聞いてきたものですが、やはりいたましいと感じました。薬は毒にもなる、だから人のいうことを鵜呑みにしたり、偉い人のお墨付きを求めるのではなく、自分で判断し、叡智を持って使用しなければならない。そして、責任ある立場の人たちも、「医は仁術」という言葉にかえって考えて欲しい、と願います。
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夜半に失礼します。(個人的な事情ですが、今日は仕事なのだけれども)
先日記した愚痴、便所落書き(>>183)について、さらに感じたことを記します。
実は私はその一方的に笑った人たちについて、その時は「なんか芝居ががっているな」というふうに感じたのですが、その人たちは本当にコロナウイルスを「怖がっている」のだと気づきました。そこのところが私には分からないのです。確かに「ライジング」などを読み、「SPA!」で「コロナ論」の連載を読んで、その内容に納得して恐怖感が払拭されていたからでもあるのですが、自分にとっては、早い話が「ほかの人間より恐ろしいものはない」という感じなんです。
いろいろ言いたいこともあるのですが、その怖がっている人たちの自分への応対、反応からしても分かると思うし、得体の知れない業者の訪問とか電話とか、結構怖い話はあったりするのです。そんなの当たり前、とおっしゃられるかたも多いのでしょうが、インターネットであるサイトを覗いていたら、いきなり電話番号とかメールアドレスとかを訊ねてくるのもあるのではないか、と思います。私はそれでメールアドレスを抛棄したこともあります。
就職関連でもかなりあるかな。詳しくは記せないけれども。学生の時も、教科書を隠されて、トイレに捨ててあった、なんてのも。つまり、私がいじめられっ子だったということで、そういうことを言うと、「被害者ぶってる」とか「過去の経験をいうことで、自らを正当化している」とか。有り体に言って、ここの書き込みをしているかたは(トッキーさんに消される一部のアンチを除いて)その内容からかなり信用していますが、投稿内容を吟味し、慎重であろうとは思っています。なかなかそうはなりきれない部分もありますが。
話を大きくすると、男系派とか親ロシア派とかも、「何かを信じ込んでしまっている人たち」であり、こちらの言うことに先入観を持ってしまっている「怖い人たち」かも知れないです。
とにかく、私にとっては、未知の病原体がどうこういう以前に、人とのつきあいかたの方が課題だ、ということです。そのことも踏まえて、以下、今号の感想です。
〇 ゴーマニズム宣言・第459回「マスクは子供の虐待である!」
マスクをずっとつけていると大人の表情が分からなくなり、コミュニケーションができなくなる、というくだりで、自分がきょうだいから「あなたは小さい時におもてで遊ばなかったから、かわっています。それを今から是正するのは不可能で、手遅れです」と言われたことを思い返しました。かなりきついことを言われていますが、ある意味で的を射ており、たとえは悪いかも知れないけれども、マスクのために人の考えていることが読み取れない人間が大量に生まれてしまうのかと思うと、空恐ろしい気分になります。以上は極端なたとえですが、人のことを理解するには、引っ込み思案で閉じこもっていては駄目で、人と接し、会話をしなければならないというのは真理だろうと思います(こういう書き方をするから、先述のように「正当化している」という意見が出てくるのでしょうか)。
あと、今回の内容に関連してですが、昨日、「辻説法」第5巻を購入したのですが、雑誌連載当時、「コクハラ」の項目で身につまされるものを感じたことを思い出しました。(以前にも記したのですが)あったんですよね、実際にそういうことが。私の場合は何とか普通の関係にもどそうとしてあれこれやったのですけれども、周囲からはみんな「その相手への嫌がらせ」と取られ、「環境を悪化させている」と一方的に言われたものです。「相手はお前との関係をもどそうとは考えていない。彼女にとって、大事なのはつきあっている相手のことだけだ」とか。とどのつまりはこれも「人の感情を読めない」ということにつながっているわけで、幼児体験はとても重要だということになるのでは、と思うのですが…こういう話は不適切ですか?こういうところからも「人間は恐ろしい」という先の言葉につながるのです。
西城秀樹の歌に「心にボタンをかけたままで男と女は愛せない ボタンを外せ ボタンを外せ ボタンを外せ(この部分、昔は「がいせ」と誤読したものです)心を見せろ」とありますが(古いですね)、ボタンをマスクにかえても十分通じる歌です。私たちがマスクから解放されない限り、マスクを捨て去らない限り、こういう状態になるのでは、と危懼いたします
最後に、「MUGO・ん…色っぽい」、懐かしいです。さらに古くなるけれども別のかたの歌で「くちびるルード」なども思い出しました。
〇 泉美木蘭のトンデモ見聞録・第253回「“遷延する症状を訴える方”~厚労省のごまかしとワクチン後遺症」
また変な言葉が出てきましたね。「遷延」…司馬遷かと思いました。「のびのびにすること、ながびくこと。また、のびのびにすること」って、野比のび太ですか?!つまりワクチン接種後に「のびのびになる」後遺症があって、そのことについてワクチンは「そんなの関係ねえ、そんなの関係ねえ、そんなの関係ねえ」とでも厚生労働省は主張したいのでしょうか。ついでに「オッペケペエ」ぢゃない、「オッパッピー」とでも言えばいいではないですか。
下品な言い方をしましたが、言葉というのは色々な風に表現できて、言い換えも可能で、ごまかしをすることもできるのかな、と思いました。しかし、こういうのは姑息で、一時しのぎでしかないです。ただの「言葉遊び」です。先の書き込みで、昔の哲人や文学者の述べた言葉には価値がある、難しいものを難しいままに理解するのも大切だ、と述べましたが、それはやはり歴史を経て、人智を尽くした言葉だから古今東西において意味があるということで、どこかのお役人が当面の対応として案出したものはそのレベルには達してはおりません。「始めに言葉ありき」とか言いますが、言葉は智慧であり、文字は正しく情報を伝えるものでなければならない、と思います。
木蘭さんがあげられていた、新生児や妊婦を通してのワクチン症状の話も、これまでたくさんこの場でも聞いてきたものですが、やはりいたましいと感じました。薬は毒にもなる、だから人のいうことを鵜呑みにしたり、偉い人のお墨付きを求めるのではなく、自分で判断し、叡智を持って使用しなければならない。そして、責任ある立場の人たちも、「医は仁術」という言葉にかえって考えて欲しい、と願います。