遅くなりましたが、今号の感想です。 〇 ゴーマニズム宣言・第455回「クライテリオンの皇室論を検証」 先にも記しましたが、この問題でこれ以上語ることはない、と思うのですが、それでも男系が伝統だ、男性の天皇でなければならない、という人は、ご自身の家庭ではどうなのか、ということを振り返って見て欲しい、という感じです。よしりん先生のおっしゃられているように、「皇族と自分の家庭は別」というダブルスタンダードがまかり通っているのなら、それこそ偽善でしょう。藤井教授も、施教授も立派な人だとは思うのですが、こんなところで、男系派のご機嫌取りをし、意見調整をするのでは日和見主義と言われても仕方がない、と思います。 伝統と因習の違いになるかどうかは分かりませんが、以前に遺産相続で父のミシンの話を書いたように思うのですが、姉の言うように、(手先が不器用な)自分に利用する器量や能力のないものは捨てるべきだ、ということになるのなら、今の日本人には天皇陛下は崇めるには勿体なさ過ぎる存在、ということになるのでしょうか?そんなことも考えてみました。 十番勝負での両教授の意見表明がどのようなものであるのか、楽しみです。 〇 泉美木蘭のトンデモ見聞録・第249回「医学者がくりかえす野蛮な歴史」 私は歴史の勉強をするのが好きなのですが、こういう話はどうも飛ばしてしまうようで、新しい発見をさせて下さり、感謝いたします。「自分が何でも知っていると思うな、自分だけが正しいと思うな」と、先のミシンエピソードで出てくるきょうだいは申し述べましたが、その通りだ、と思います。 しかし、本当に疑似科学と科学は一心同体であると感じさせられました。つまり、人間はそれだけ無知であり、無知な状態の中ではコレラの瘴気説や手の衛生に対する無理解の方がまかり通ってしまい、「常識」や「伝統」扱いされてしまい、「因習」化されてしまうのだな、と。疑似科学で有名な例としてフロギストン説、つまりものが燃焼すると「フロギストン」なるものを消費し、質量が減っていくといった学説の方が大多数であり、質量保存の法則など及びもつかない、アリストテレスや聖書の世界では「天動説」の方が常識だった、というのと同じなのでしょう。 そう考えると、私たちの「常識」と呼ばれているものも本当の「真理」ではないのかも知れないです。これも真理信仰と呼ばれるものなのかも知れないです。伝統と因習を区分けし、分別するのは大変なことで、私たちの当たり前がこのコロナ騒ぎで突然崩れ去るように、すべての常識が「因習」と化し、歴史の彼方へ追いやられてしまう日が来るのでしょうか。 ただ、個人の意見を信じて貰うか否か、という問題にはその人の日ごろの行いとか性格・言動なども加味されてくる場合が多いから、「自分が正しい」とだけ主張するのは間違っているのかも知れない、長い目で見て、相手を納得させる技量も要るのかな、とも思います。その点で「真理」だけを絶対化するのはある種の宗教のようなものになってしまうのかな、と。話題をもどしますが、藤井氏や施氏がそういうことも考えて、男系派との調整をはかろうとしたのなら、それはそれで一つの努力とも言えなくもないですが、しかし、非なるものは非と言わないと駄目でしょう。愛子様の場合は成人してしまっているし、子供の時間と大人の時間感覚は大幅に異なってくるのだから、もう時遅しなのかもしれないとする危懼は正しい、そのことを冷静に言わないと駄目なのかな。自分もつい感情的になってしまうところがあるので。 想像ですが、ゼメルヴァイスにもそういうところはあったのかな、と。第三者が何を言うのか、とも思われるかも知れませんが、当時のハンガリーはオーストリアと同君連合で、ハンガリー人の権利も認められてきたのだろうと思いますが、その意味でウイーンで勤務しているハンガリー人のゼメルヴァイスにも、承認への焦りのようなものがあったのではないか、という想像もしてみました。的外れかも知れないですが。 以上です。 しゃべクリですが、「プッチンプリン」ネタが受けるとは思いませなんだ。苦し紛れのギャグだったのですが。競(キソイ)さんへ。「プッチーニ」でも面白いですね。 ということで次号を期待します。モーニングショー、手のひらを返したようにロシアねた、と言ったところなのでしょうか。人間の無責任さ、自分の身に置き換えて考える想像力がかけているところが見えているようで、なかなか面白いです。
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遅くなりましたが、今号の感想です。
〇 ゴーマニズム宣言・第455回「クライテリオンの皇室論を検証」
先にも記しましたが、この問題でこれ以上語ることはない、と思うのですが、それでも男系が伝統だ、男性の天皇でなければならない、という人は、ご自身の家庭ではどうなのか、ということを振り返って見て欲しい、という感じです。よしりん先生のおっしゃられているように、「皇族と自分の家庭は別」というダブルスタンダードがまかり通っているのなら、それこそ偽善でしょう。藤井教授も、施教授も立派な人だとは思うのですが、こんなところで、男系派のご機嫌取りをし、意見調整をするのでは日和見主義と言われても仕方がない、と思います。
伝統と因習の違いになるかどうかは分かりませんが、以前に遺産相続で父のミシンの話を書いたように思うのですが、姉の言うように、(手先が不器用な)自分に利用する器量や能力のないものは捨てるべきだ、ということになるのなら、今の日本人には天皇陛下は崇めるには勿体なさ過ぎる存在、ということになるのでしょうか?そんなことも考えてみました。
十番勝負での両教授の意見表明がどのようなものであるのか、楽しみです。
〇 泉美木蘭のトンデモ見聞録・第249回「医学者がくりかえす野蛮な歴史」
私は歴史の勉強をするのが好きなのですが、こういう話はどうも飛ばしてしまうようで、新しい発見をさせて下さり、感謝いたします。「自分が何でも知っていると思うな、自分だけが正しいと思うな」と、先のミシンエピソードで出てくるきょうだいは申し述べましたが、その通りだ、と思います。
しかし、本当に疑似科学と科学は一心同体であると感じさせられました。つまり、人間はそれだけ無知であり、無知な状態の中ではコレラの瘴気説や手の衛生に対する無理解の方がまかり通ってしまい、「常識」や「伝統」扱いされてしまい、「因習」化されてしまうのだな、と。疑似科学で有名な例としてフロギストン説、つまりものが燃焼すると「フロギストン」なるものを消費し、質量が減っていくといった学説の方が大多数であり、質量保存の法則など及びもつかない、アリストテレスや聖書の世界では「天動説」の方が常識だった、というのと同じなのでしょう。
そう考えると、私たちの「常識」と呼ばれているものも本当の「真理」ではないのかも知れないです。これも真理信仰と呼ばれるものなのかも知れないです。伝統と因習を区分けし、分別するのは大変なことで、私たちの当たり前がこのコロナ騒ぎで突然崩れ去るように、すべての常識が「因習」と化し、歴史の彼方へ追いやられてしまう日が来るのでしょうか。
ただ、個人の意見を信じて貰うか否か、という問題にはその人の日ごろの行いとか性格・言動なども加味されてくる場合が多いから、「自分が正しい」とだけ主張するのは間違っているのかも知れない、長い目で見て、相手を納得させる技量も要るのかな、とも思います。その点で「真理」だけを絶対化するのはある種の宗教のようなものになってしまうのかな、と。話題をもどしますが、藤井氏や施氏がそういうことも考えて、男系派との調整をはかろうとしたのなら、それはそれで一つの努力とも言えなくもないですが、しかし、非なるものは非と言わないと駄目でしょう。愛子様の場合は成人してしまっているし、子供の時間と大人の時間感覚は大幅に異なってくるのだから、もう時遅しなのかもしれないとする危懼は正しい、そのことを冷静に言わないと駄目なのかな。自分もつい感情的になってしまうところがあるので。
想像ですが、ゼメルヴァイスにもそういうところはあったのかな、と。第三者が何を言うのか、とも思われるかも知れませんが、当時のハンガリーはオーストリアと同君連合で、ハンガリー人の権利も認められてきたのだろうと思いますが、その意味でウイーンで勤務しているハンガリー人のゼメルヴァイスにも、承認への焦りのようなものがあったのではないか、という想像もしてみました。的外れかも知れないですが。
以上です。
しゃべクリですが、「プッチンプリン」ネタが受けるとは思いませなんだ。苦し紛れのギャグだったのですが。競(キソイ)さんへ。「プッチーニ」でも面白いですね。
ということで次号を期待します。モーニングショー、手のひらを返したようにロシアねた、と言ったところなのでしょうか。人間の無責任さ、自分の身に置き換えて考える想像力がかけているところが見えているようで、なかなか面白いです。