新年第一号の配信、有り難うございます。ゴーマニズム宣言30周年、あまり意識はしていなかったです。 すべての道はローマに通ず、とか申しますが、すべては第一章に現れているわけですね。 私自身、かつて学生時代に「水くらげ」と理科の先生に綽名をつけられたことがあるので、現在の惰弱な国民性とくらげの関連性と問われると少し複雑な気分になります。くらげにはくらげの存在価値がある、とも思うので。しかし、言論に限らず不定型なもののたとえとしてはぴったりなような気もします。 どこかの寓話に、驢馬売りの親子が人の言うなりになって、結果、驢馬の足を棒に括りつけて運ぶ羽目になり、川を渡るときに手を滑らせて溺れ死にさせたという話がありますが、それと、昨今の専門家・マスコミ煽りの情況はよく似ているような気がします。 日本人って、そういう国民性なのでしょうか。曖昧であるところに柔軟な思考ができるという勘違いをし、ただ事態の推移に左右されているだけで、自分で人生を切り開こうという気概にかけているわけなのでしょうか。自分もそんなに自主的に自律的に生きてきたのかと問われると、首を捻りたくなりますが。 お金を稼ぐために会社などの組織に加入しないといけなかったりもするので、自分の主張だけを通すと頑固だとか意固地だとかみられる場合もあるのかな、とも。それでも、自分の頭で考えて生きてみたいと最近、つくづく思います。勿論、人間は全知全能ではないので、他者の意見を参考にする場合もあるのでしょうが、それも、自分の判断で選ぶべし、と。 今のワクチン、マスク絶対主義を見ていると、どうして猿真似しかできないのだろう、みんながすることは正義なのか、真理なのかという疑問が湧いてきます。ある人が(また話をぶり返すのは嫌なのだけれども)、「カウンセリングを電話にしてくれと言っている人も沢山いるんですよ」とかのたまうていたのですが、「人は人、自分は自分」と私は言いましたね。それでもそのカウンセラーにはそのやりかたでしか「正義」は見えていなくて、だったら、やめるしかない、としか言えなくなってしまうわけなんですよね。 木蘭さんのあげられているワクチンの犠牲の例を読んでいても、単純にお上のすることは正しい、政府がパンフレットにしてあるものには権威がある、と信じ込んでしまうのか、と悲しくなります。その心筋炎の後遺症が残った女性の話にしても、今さらながらではありますが、医師とは何と無責任なのだろう、専門家と称するものたちや、こびナビや、厚生労働省、河野太郎などの言葉の重みのなさにばかばかしさを感じさせられます。 いつから言葉とは軽いものになったのだろうか。綸言汗の如しで、勇気を出して職場の女性に告白したら、場合によっては「会社環境を悪化させている」とか始終言われ続けるものではないのか(また個人的な話になるのですが)とか思ったりするのです。私は今でも誰かに好きとか嫌いとか言うのに躊躇するところがあり、そういうところも、先の話にもどりますが「くらげ」たる所以で、自己防衛と言われてしまえばそれまでなのだけれども、言葉を発するという行為は、天地神明に誓う位の重みがあってしかるべきではないのか、と。 自分の考えを述べるのはとても大変なことだろうと思います。うまく表現できなかったり、いざとなると気がすくんでしまい、途切れ途切れのものにもなりかねない。それでも、その人が生きた証としての言葉は発言しなければいけないと思うし、それが一般にも当てはまるのか、自分だけのことなのか、ということまで含めて考察しなければいけないのだろう。 少し堅苦しく、冗長に述べてみましたが、今号のライジングを読んで感じたことを何となく纏めてみました。先日の倉持先生の新年会放送で「簡潔」だけが文章ではない、という指摘をされたかたがいたので、そのように述べてみました。また改めて各論を述べるかも知れませんが、とりあえずはこんなところです。 よしりん先生が、過去の作品を振り返らずに、常に新しいものを追求しつづけている作家としての姿勢に感歎致しました。私個人の希望としてはできれば「夫婦の絆」「大東亜論」や、「10万年の神様」あたりの完結篇を読みたいような気もするのですが。やはり今作りたいものが一番なのでしょう。「ファクターX」期待しております。
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新年第一号の配信、有り難うございます。ゴーマニズム宣言30周年、あまり意識はしていなかったです。
すべての道はローマに通ず、とか申しますが、すべては第一章に現れているわけですね。
私自身、かつて学生時代に「水くらげ」と理科の先生に綽名をつけられたことがあるので、現在の惰弱な国民性とくらげの関連性と問われると少し複雑な気分になります。くらげにはくらげの存在価値がある、とも思うので。しかし、言論に限らず不定型なもののたとえとしてはぴったりなような気もします。
どこかの寓話に、驢馬売りの親子が人の言うなりになって、結果、驢馬の足を棒に括りつけて運ぶ羽目になり、川を渡るときに手を滑らせて溺れ死にさせたという話がありますが、それと、昨今の専門家・マスコミ煽りの情況はよく似ているような気がします。
日本人って、そういう国民性なのでしょうか。曖昧であるところに柔軟な思考ができるという勘違いをし、ただ事態の推移に左右されているだけで、自分で人生を切り開こうという気概にかけているわけなのでしょうか。自分もそんなに自主的に自律的に生きてきたのかと問われると、首を捻りたくなりますが。
お金を稼ぐために会社などの組織に加入しないといけなかったりもするので、自分の主張だけを通すと頑固だとか意固地だとかみられる場合もあるのかな、とも。それでも、自分の頭で考えて生きてみたいと最近、つくづく思います。勿論、人間は全知全能ではないので、他者の意見を参考にする場合もあるのでしょうが、それも、自分の判断で選ぶべし、と。
今のワクチン、マスク絶対主義を見ていると、どうして猿真似しかできないのだろう、みんながすることは正義なのか、真理なのかという疑問が湧いてきます。ある人が(また話をぶり返すのは嫌なのだけれども)、「カウンセリングを電話にしてくれと言っている人も沢山いるんですよ」とかのたまうていたのですが、「人は人、自分は自分」と私は言いましたね。それでもそのカウンセラーにはそのやりかたでしか「正義」は見えていなくて、だったら、やめるしかない、としか言えなくなってしまうわけなんですよね。
木蘭さんのあげられているワクチンの犠牲の例を読んでいても、単純にお上のすることは正しい、政府がパンフレットにしてあるものには権威がある、と信じ込んでしまうのか、と悲しくなります。その心筋炎の後遺症が残った女性の話にしても、今さらながらではありますが、医師とは何と無責任なのだろう、専門家と称するものたちや、こびナビや、厚生労働省、河野太郎などの言葉の重みのなさにばかばかしさを感じさせられます。
いつから言葉とは軽いものになったのだろうか。綸言汗の如しで、勇気を出して職場の女性に告白したら、場合によっては「会社環境を悪化させている」とか始終言われ続けるものではないのか(また個人的な話になるのですが)とか思ったりするのです。私は今でも誰かに好きとか嫌いとか言うのに躊躇するところがあり、そういうところも、先の話にもどりますが「くらげ」たる所以で、自己防衛と言われてしまえばそれまでなのだけれども、言葉を発するという行為は、天地神明に誓う位の重みがあってしかるべきではないのか、と。
自分の考えを述べるのはとても大変なことだろうと思います。うまく表現できなかったり、いざとなると気がすくんでしまい、途切れ途切れのものにもなりかねない。それでも、その人が生きた証としての言葉は発言しなければいけないと思うし、それが一般にも当てはまるのか、自分だけのことなのか、ということまで含めて考察しなければいけないのだろう。
少し堅苦しく、冗長に述べてみましたが、今号のライジングを読んで感じたことを何となく纏めてみました。先日の倉持先生の新年会放送で「簡潔」だけが文章ではない、という指摘をされたかたがいたので、そのように述べてみました。また改めて各論を述べるかも知れませんが、とりあえずはこんなところです。
よしりん先生が、過去の作品を振り返らずに、常に新しいものを追求しつづけている作家としての姿勢に感歎致しました。私個人の希望としてはできれば「夫婦の絆」「大東亜論」や、「10万年の神様」あたりの完結篇を読みたいような気もするのですが。やはり今作りたいものが一番なのでしょう。「ファクターX」期待しております。