先のコメントで、「自己責任」と言う言葉を思い違いしていました。つまり、今までの人生(?)の自分の行動の責任はすべて自分で取らなければいけない。外で遊ばなかった結果、常識外れで不健康になったのも、「自業自得」だ。しかし、引きこもりにいきなり外へ出ろと言っても何をすればいいのか分からないから、そのための「指導」や「アドヴァイス」が必要だ、それは身近な大人の「愛情」から生じるもので、「常識」とか「バランス感覚」はそういうことと関係あるのでは、大人の責任は重大だ、ということが言いたかったのです。 そうではなくて、この場合の「自己責任論」は、親など大人が、子供でも自分の頭脳を持ち、考えることができるのだから、自分の行為は自分で思考して選択し、その結果を後悔してはならない、という「思い込み」を示しているとのだと気づきました。自分はどうも他者の言葉を自分の体験に置き換えて解釈し、「分かった気分」になってしまうみたいです。気をつけたいです。 その場合の「自己責任論」は明らかになり立たないもので、なぜなら、子供がかりに「考える」ことができたとしても、「データ」としての人生経験がかけているため、正しい判断にいたらぬ場合が多いからです。その手本を示すのが大人など親であり、彼らが正しい判断を表示しない限り、子供もそれに見習ってしまうわけです。子供にとって、「親」は神様みたいなものであり、「家庭」に「青い鳥」がいたように、幼い頃のしあわせの大部分は「家族」間の中にあるのではないか、と思います。当然の話で、幼子が一人暮らしをしているという話の方が不良めいて見えるのが、いわゆる「世間」でいうところの「常識」でしょう。 しかし、「青い鳥」が家庭で発見された後、再度逃げていってしまったように、大人になってからの幸福は「自身」で捜してゆかなければならないわけで、そこからの責任は「自分自身」、「個人」にあると思うわけです。 その接種して「後悔」がないという大学生も、まだ「家庭」という温床に浸っていて、大人になりきっていない、青い鳥を捜す心構えもなく、しあわせはただ待っていれば、周囲の言う通りにしていればおのずと獲得できる、と思い込んでいるわけなのでしょう。日本人の「世間」が大きな「家庭」のようなものであって、そこに所属していれば何でも相談に乗って貰えて、楽をすることができる。その中での自己の決定は「個人」で決めたものではなく、言うなれば「何となく決まってしまったもの」であるような気がします。 子供の場合は「自分は何も知らなかった」で許されることも、大人になってしまえば、許容できるものではなく、ただの甘えになります。それだけの「経験」と「学習」をしている筈なのだから。選挙権を持つことも、納税することも大人としての「責任」があるという意味で、誰かの智慧を借りることはできても、そこからの判断は個人で持たねばならぬのだ、というのが私の考えです。そして、自分が誤っていたら、反省しなければならないし、「後悔」してもいいのだ、なぜなら、次に同じようなことがあった場合の参考になるから、ということではないか、と。 ちなみに、「鬼滅の刃」の炭治郎の場合は、確実に「大人」の段階に足を踏み入れてしまった子供であり、既に甘えが許されなくなっているわけです。 いずれにしても、大人がしっかりしていないといくら子供が早熟でも正しい智慧と世間智を得ることは不可能で、子供のうちは親に甘えるのが正常なありかたではないか、と自分は思います。そこで最初の結論にもどりますが、大人の責任は大きい、情報に惑わされて右往左往しては駄目だ、論理的に、科学的に正しい思考力をもつべし、となるわけです。 以上、頭で考えてみましたが、大切なのは、こういうことを自然に感じ取り、咄嗟に子供を守れる人間になれること、なのではありますまいか。 何度も、同じ下らない話をすみませんでした。しかし、コロナ、コロナとただ恐怖しかしない私たちに、子供に道を示せるのでしょうか? 石化した、ではない、石灰化したよしりん先生の右手の関節の一日もはやい治癒を祈ります。この駄文を読んで、「寿限無」のこぶみたいに引っ込んでくれるといいのだけれども。
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先のコメントで、「自己責任」と言う言葉を思い違いしていました。つまり、今までの人生(?)の自分の行動の責任はすべて自分で取らなければいけない。外で遊ばなかった結果、常識外れで不健康になったのも、「自業自得」だ。しかし、引きこもりにいきなり外へ出ろと言っても何をすればいいのか分からないから、そのための「指導」や「アドヴァイス」が必要だ、それは身近な大人の「愛情」から生じるもので、「常識」とか「バランス感覚」はそういうことと関係あるのでは、大人の責任は重大だ、ということが言いたかったのです。
そうではなくて、この場合の「自己責任論」は、親など大人が、子供でも自分の頭脳を持ち、考えることができるのだから、自分の行為は自分で思考して選択し、その結果を後悔してはならない、という「思い込み」を示しているとのだと気づきました。自分はどうも他者の言葉を自分の体験に置き換えて解釈し、「分かった気分」になってしまうみたいです。気をつけたいです。
その場合の「自己責任論」は明らかになり立たないもので、なぜなら、子供がかりに「考える」ことができたとしても、「データ」としての人生経験がかけているため、正しい判断にいたらぬ場合が多いからです。その手本を示すのが大人など親であり、彼らが正しい判断を表示しない限り、子供もそれに見習ってしまうわけです。子供にとって、「親」は神様みたいなものであり、「家庭」に「青い鳥」がいたように、幼い頃のしあわせの大部分は「家族」間の中にあるのではないか、と思います。当然の話で、幼子が一人暮らしをしているという話の方が不良めいて見えるのが、いわゆる「世間」でいうところの「常識」でしょう。
しかし、「青い鳥」が家庭で発見された後、再度逃げていってしまったように、大人になってからの幸福は「自身」で捜してゆかなければならないわけで、そこからの責任は「自分自身」、「個人」にあると思うわけです。
その接種して「後悔」がないという大学生も、まだ「家庭」という温床に浸っていて、大人になりきっていない、青い鳥を捜す心構えもなく、しあわせはただ待っていれば、周囲の言う通りにしていればおのずと獲得できる、と思い込んでいるわけなのでしょう。日本人の「世間」が大きな「家庭」のようなものであって、そこに所属していれば何でも相談に乗って貰えて、楽をすることができる。その中での自己の決定は「個人」で決めたものではなく、言うなれば「何となく決まってしまったもの」であるような気がします。
子供の場合は「自分は何も知らなかった」で許されることも、大人になってしまえば、許容できるものではなく、ただの甘えになります。それだけの「経験」と「学習」をしている筈なのだから。選挙権を持つことも、納税することも大人としての「責任」があるという意味で、誰かの智慧を借りることはできても、そこからの判断は個人で持たねばならぬのだ、というのが私の考えです。そして、自分が誤っていたら、反省しなければならないし、「後悔」してもいいのだ、なぜなら、次に同じようなことがあった場合の参考になるから、ということではないか、と。
ちなみに、「鬼滅の刃」の炭治郎の場合は、確実に「大人」の段階に足を踏み入れてしまった子供であり、既に甘えが許されなくなっているわけです。
いずれにしても、大人がしっかりしていないといくら子供が早熟でも正しい智慧と世間智を得ることは不可能で、子供のうちは親に甘えるのが正常なありかたではないか、と自分は思います。そこで最初の結論にもどりますが、大人の責任は大きい、情報に惑わされて右往左往しては駄目だ、論理的に、科学的に正しい思考力をもつべし、となるわけです。
以上、頭で考えてみましたが、大切なのは、こういうことを自然に感じ取り、咄嗟に子供を守れる人間になれること、なのではありますまいか。
何度も、同じ下らない話をすみませんでした。しかし、コロナ、コロナとただ恐怖しかしない私たちに、子供に道を示せるのでしょうか?
石化した、ではない、石灰化したよしりん先生の右手の関節の一日もはやい治癒を祈ります。この駄文を読んで、「寿限無」のこぶみたいに引っ込んでくれるといいのだけれども。