希蝶 のコメント

 少しご無沙汰しておりました。生放送、お疲れ様でした。
 私には幸運の当選券は届きませんでしたが、その分、パソコンで応援します。

 …と綺麗事を言っておしまいにしたいところですが、毎回、このために職場のシフトで休みをとってもいるので、悔しくないのかと言えば嘘になります。
 でも、岡山と、大阪のオドレら正気かに参加させて貰えましたので、それはそれで感謝しています。新規参加者もたくさんいるのかも知れないし、今はコロナ恐怖症がこの世界から撤廃されることの方が重要です(やはり綺麗事でおしまいにします)。

 本題からずれましたが、コロナ後遺症で苦しんでいるのに「後悔はしていない」という大学生の話で「自己責任論」という言葉が出てきましたが、実を言えば、私もどこかでこの考え方(自己責任論の方)に毒されていたところがありました。また自分語りをしてしまいますが、ご容赦下さい。
 私の場合、(今も実はそうですが)子供の頃は引っ込み思案で、外に出て遊ぶことがなく、親から強制的に外へ連れて行かれたことの方が多かったです。そのたびに「お前のように外で遊ばないと、常識が身につかないし、健康にもなれず、骨皮筋右衛門になるぞ」というようなことを言われたものでした。
 だから、外へ出て遊ぶ、ということが正義で、家の中に引きこもるのは悪、というふうに思ってきたのです。つまり、自分に体力がないのは、おもてで遊ばなかったから、というような判断をして、自業自得だ、みたいに感じてきたということです(しかし、それでも外へ出たいという気にはなれず、何だか廻りが言うから、外へでなければいけないような気分になり、でもなにをすればよいか分からなかった、というような状態でした)。

 確かにこれは真実です。しかし、「不幸せになる権利」があると同時に、「不健康になる権利」だってあるはずなのではないか、ということでもあるのではないのでしょうか?
 これと関連して、母親が生きていたら、このコロナ騒ぎをどう思うのか、聞いてみたいような気もします。恐らく、よしりん先生が、子供の一回目の接種で不健康になったのに、次の接種はいつかと聞いてくるような親を愚かだ、と笑ったような気がします。母親は気は強い人間でしたが、常識はとてもある人でした。そして、上述のように、そのこと(そんな母親の毒舌)がかえって、自分にとってとても辛かったし、きつかったわけでもあったのです。男がこんなことを言っていてはいけないのだけれども。

 自分にも「ワクチンの星」ではないですが、根性論的なところがあります。この位でへこたれていては駄目だ、人のいう悪口など聞き流せ、嫌がらせなど無視しろ、みたいに。しかし、世の中、情況によって判断を変えないといけない、ということがこの放送を聞いていても、「ゴー宣」を読んでいても、「おぼっちゃまくん」でもよく分かってきました。私の場合、その対応の変容が難しく、識字障害の子にも、単なるADHDの子にも同じような対応(授業)をして、その相違点が分からずに頭が混乱してしまい、どちらもものにならなかったという前科があります。また、これも何度も記していますが、恋の告白をして相手の反応が変わるという「常識」、あるいはその人独自の性質が分からず、自分と同じ神経質な人間だ、と思い込んで、周囲を巻き込んで多大なる迷惑をかけたことも。しかし、その時の周囲が「職場環境」という「世間」を持ち出してくるから、よけいにわけが分からなくなったし、(今から思えば)不当なこと、たとえば「彼女などこりごりだ」という本音を語ったら、「〇〇さん、恰好つけてる、おかしい」といきなり笑われた、というような反応をされたこともありました。
 今振り返ってみると、それは自分に対する偏見もあったのでしょうし(それこそおもてで遊ばなかったつけなのかも知れないし)、性格など、人によって考えていることは異なるのだ、理屈で自分と同じような反応はしないのだ、という単純な事実が分からなかっただけなのかな、と思います。TVの洗脳という話も出ましたが、本来、人間は別々であってよいわけで、朝日を見て活力を与えられると感動する人もいれば、また同じ一日が始まるとげんなりする人もいて良いはずなのに、今の世の中、コロナと聞けば怖い、だからワクチンで安心しようという、右向け右みたいなふうになってしまい、個々の思想の自由がどこかへ置き去りにされているような感じです。
 そして、子供にとって、親のいうことが絶対であるように、親がどうこう言ってしまうと逆らえないという子の方が多いのでしょう。やはり十代あたりまでは、よほどの反抗期でも起こさない限り、反対のことはできないのかな。だからこそ、親は思い込みや自分の人生経験だけで教育をしてはいけないわけで、親の責任、大人の責任は大きいとも思うのですが、コロナ騒ぎでは何だか親が子供を利用しているような風潮もあったりして(どこかのコロなびの医師みたいに)、子供に対して申しわけないような気がします。

 このコメントでは、どうも「鬼滅の刃」に否定的な意見が多いみたいですが、私は第一話の炭治郎の、兄弟を連れて山をおりていれば鬼から救えたかもしれないという「後悔」はとても大切なものだと思います。自分も何だかんだ言って、外で遊ばなかったことを「後悔」しています。同時に、その時そうしたくない人間を無理矢理外に連れ出すのも逆効果だったのでは、というふうにも思います。
 果たしてどちらが正しかったのか、となると、やはり独善的な考えにならぬよう、外へ出ることが重要だったのかな、となるのでしょうが、(子供の時の)その時の自分の気分みたいなものもあるわけで、これもケースバイケースだったのでしょう。そして、そこまで「外へ出て遊べ」を徹底するのなら、もっと別の手段もあったのではないか、何かほかの子供などのしていることに関心を持たせるようにする、というふうな手段もあったのでは、と思います。何かと言えば、「お前は変わっている」でしたから。 
そして、子供の自分が机に坐って、ただぼーとしているのも、はたからすれば無駄な時間を過ごしているようにしか見えなかったかもしれませんが、それはそれで(効果のないワクチンを接種するよりもはるかに)価値があったような気もします。自分にとっては空想に耽ることも大切な時間だったのだから。
 確かにそれらすべてを親に総合して、適切な指示をして欲しかった、というのは不可能で、まずは子供同士のコミュニケーションを養え、としか言えなかったのだろうし、親の思い通りにならない、手の負えない子供だとしか見えなかったのでしょう。さらに、これは自分の場合にしか当てはまらないことで、すべての年少者に当てはまるものではなく、その子特有の方針みたいなものもあるのだとも想像します。
 テーマからはずれるのですが、子育ては至難のわざだ、ただしつけを厳しくすれば良いわけでもなく、甘やかせば良いわけでもなく、ほどよい匙加減みたいなものが必要で、やはりそれは「その子供」への愛情がなければ生まれないものなのかも知れない、というようなことを感じました。
 コロナからもワクチン話からも外れた話になりましたが、「常識」をとりもどすということは、そういったところから始めなければいけないような気がするのです。貴方は自分の子供のことを本当に考えていますか?ただ手が焼けるとか、おとなしくて従順だ、というような価値判断でしか、子供を見ていませんか、というふうに。

 本当に下らないことをだらだら記しました。すみません円。でも、とても重要な話だと思います。自分のことを親の責任にしている意図はありませんので、念のためにつけ加えます。

No.108 37ヶ月前

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