日本人の「全体主義に染まりやすい」「空気を読む」という特性について、いくつかのテレビ番組を見て考えさせられたことについて書かせていただこうかと思います。 『SWITCHインタビュー 達人達』のブレイディみかこ氏と鴻上尚史氏の対談が非常に興味深かったです。 ブレイディ氏は23年間イギリスに住んでいるが、いつ日本に戻ってきても「変わった」という印象がほとんど無いと語ります。 鴻上氏は「どこへ変わっていけばよいのか分からないから、とりあえず(現状を)守っておこうとなっているのだろう」と返します。 さらにブレイディ氏は、数年前に巨大台風が日本に上陸した際に、ホームレスを避難所に入れることを区役所の職員が拒んだというニュースを持ち出しました。 あのニュースはBBCでも報じられたのだそうですが、それを見たブレイディ氏の息子さん(恐らくミドルティーンぐらいの年齢)は 「日本は社会への信頼が足りないのではないか」 と指摘したのだそうです。 ホームレスを追い出せばその命が危険にさらされる――そんな重い責任は個人では負えないから、「公」のルールに即して入れてしまった方が楽なのに、その場の「空気」を優先させて追い出してしまう。 社会に対する信頼があれば、入れるという判断(入れておいて、不都合が生じた場合の責任を区が負う)が普通ではないか、というのが息子さんの見解だったそうです。 あのニュースでそこまで見抜くとは、恐ろしいまでの慧眼の持ち主ですが、言うまでもなくよしりん先生や倉持師範が主張されている「世間>>>>社会」「国家と個人が脆弱」という構図にぴたりと重なります。 「個」が無いから「国家観」も無く、だから「何を守り、何を変えていくか」というビジョンも無いから、街並みのうわべだけは変わっても社会の本質的なところは変わっていないように感じられるのかもしれません。 一方、「空気」を読むと言うことに関して、これは別の番組で見たものだと思いますが、日本語は文末に述語を配置し、肯定否定などのニュアンスも決定するという独特の文法を持つので「話しながら相手の表情を見て、文末でニュアンスを調整する」という芸当が可能となる言語である、と。 「空気を読む」という特性は、そこから生まれたのではないか、という考え方(もちろん、順序が逆ということもありえます)。 そして鴻上氏は同調圧力というものに対して相当な警戒感を抱いており(それについて著した本も出版されています)、日本人は自分の意見や気持ちを伝えるためのコミュニケーション能力をもっと磨く必要があると主張されています。 昔から「気持ちが伝わる」という言われ方をされていますが、「気持ちを伝えるには技術が必要」というのが演劇人たる鴻上氏の考え方。 ブレイディ氏も、イギリス社会も格差や差別など色々な問題を抱えているが、オープンに主張が伝わってくる分、戦いようがある、と言われています。 今の日本の閉塞感というのは、全体主義に染め上げられた絶望感だけではなく、各々が本当のところはどう感じているのかが分からないという気持ち悪さも加わっているのではないか、と思います。 ネットやメディアで取り上げられる意見は、いわゆるノイジーマイノリティなのではないか。 自分の周囲の人間は、案外そこまでコロナ脳ではないのではないか。 でも踏み込んで話せないから、飲み込んでおかざるを得ない、というような。 この点に関連するのですが、『たけしのその時カメラは回っていた』という番組で、戦時下のプロバガンダ報道を取り上げていたのですが(これはこれで大変に興味深い内容でした)、その時にたけしが戦時末期の雰囲気について母親がこんな風に言っていた、というエピソードを紹介。 たけしの母親曰く、「日本はどうなってしまうのだろう」と言おうものなら「非国民」と罰せられた時代だったが、実のところ戦勝報道は大嘘で日本は負けるのだろう、と感づいている人が多かった、と。 特撮美術の巨匠・成田亨氏も自著で「勝っているのなら、こんなに空襲を受けるのはおかしい。たぶん負けているのだろう」と小学生ながらに思っていた、と綴っています。 なので、今回のコロナ禍においても、「最初はコロナ脳だったけど、今はもう分かってきた」という人は数多いと思います。 マスコミは「もうマスクは不要だと思う」「時短制限や酒類提供制限は無意味だと思う」「2類を5類に落とした方がよいと思う」というアンケートは絶対に実施しないでしょう。 人流を抑制するというのも、コミュニケーションを分断することで、世論が都合の悪い方向に盛り上がることを防ぐ意図もあるのではないかと勘ぐりたくなります。 ちなみに長年に渡って人生相談コーナーを受け持つ鴻上氏によると、社会が低迷していると人々の悩みも内向的で深刻化していき、そしてやたらと「絆」「団結」という単語が用いられるようになるそうです。 経済が好調だと、社会からはみ出しても「何とかなるさ」と楽観的になれるけど、これだけ先行き不透明な状況だと内にこもって世間と繋がりたくなる、と。 戦時も直前に世界恐慌があった時代でしたし、社会的に共通する背景があるのかもしれません。 まとまりのない長文になって恐縮ですが、日本人の特性や日本という国の立ち位置など、色々と危うい要素があるのだということを痛感させられた次第です。 自分としては、今後「公」のためにどのような行動をとっていくべきか、考え中です。
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日本人の「全体主義に染まりやすい」「空気を読む」という特性について、いくつかのテレビ番組を見て考えさせられたことについて書かせていただこうかと思います。
『SWITCHインタビュー 達人達』のブレイディみかこ氏と鴻上尚史氏の対談が非常に興味深かったです。
ブレイディ氏は23年間イギリスに住んでいるが、いつ日本に戻ってきても「変わった」という印象がほとんど無いと語ります。
鴻上氏は「どこへ変わっていけばよいのか分からないから、とりあえず(現状を)守っておこうとなっているのだろう」と返します。
さらにブレイディ氏は、数年前に巨大台風が日本に上陸した際に、ホームレスを避難所に入れることを区役所の職員が拒んだというニュースを持ち出しました。
あのニュースはBBCでも報じられたのだそうですが、それを見たブレイディ氏の息子さん(恐らくミドルティーンぐらいの年齢)は
「日本は社会への信頼が足りないのではないか」
と指摘したのだそうです。
ホームレスを追い出せばその命が危険にさらされる――そんな重い責任は個人では負えないから、「公」のルールに即して入れてしまった方が楽なのに、その場の「空気」を優先させて追い出してしまう。
社会に対する信頼があれば、入れるという判断(入れておいて、不都合が生じた場合の責任を区が負う)が普通ではないか、というのが息子さんの見解だったそうです。
あのニュースでそこまで見抜くとは、恐ろしいまでの慧眼の持ち主ですが、言うまでもなくよしりん先生や倉持師範が主張されている「世間>>>>社会」「国家と個人が脆弱」という構図にぴたりと重なります。
「個」が無いから「国家観」も無く、だから「何を守り、何を変えていくか」というビジョンも無いから、街並みのうわべだけは変わっても社会の本質的なところは変わっていないように感じられるのかもしれません。
一方、「空気」を読むと言うことに関して、これは別の番組で見たものだと思いますが、日本語は文末に述語を配置し、肯定否定などのニュアンスも決定するという独特の文法を持つので「話しながら相手の表情を見て、文末でニュアンスを調整する」という芸当が可能となる言語である、と。
「空気を読む」という特性は、そこから生まれたのではないか、という考え方(もちろん、順序が逆ということもありえます)。
そして鴻上氏は同調圧力というものに対して相当な警戒感を抱いており(それについて著した本も出版されています)、日本人は自分の意見や気持ちを伝えるためのコミュニケーション能力をもっと磨く必要があると主張されています。
昔から「気持ちが伝わる」という言われ方をされていますが、「気持ちを伝えるには技術が必要」というのが演劇人たる鴻上氏の考え方。
ブレイディ氏も、イギリス社会も格差や差別など色々な問題を抱えているが、オープンに主張が伝わってくる分、戦いようがある、と言われています。
今の日本の閉塞感というのは、全体主義に染め上げられた絶望感だけではなく、各々が本当のところはどう感じているのかが分からないという気持ち悪さも加わっているのではないか、と思います。
ネットやメディアで取り上げられる意見は、いわゆるノイジーマイノリティなのではないか。
自分の周囲の人間は、案外そこまでコロナ脳ではないのではないか。
でも踏み込んで話せないから、飲み込んでおかざるを得ない、というような。
この点に関連するのですが、『たけしのその時カメラは回っていた』という番組で、戦時下のプロバガンダ報道を取り上げていたのですが(これはこれで大変に興味深い内容でした)、その時にたけしが戦時末期の雰囲気について母親がこんな風に言っていた、というエピソードを紹介。
たけしの母親曰く、「日本はどうなってしまうのだろう」と言おうものなら「非国民」と罰せられた時代だったが、実のところ戦勝報道は大嘘で日本は負けるのだろう、と感づいている人が多かった、と。
特撮美術の巨匠・成田亨氏も自著で「勝っているのなら、こんなに空襲を受けるのはおかしい。たぶん負けているのだろう」と小学生ながらに思っていた、と綴っています。
なので、今回のコロナ禍においても、「最初はコロナ脳だったけど、今はもう分かってきた」という人は数多いと思います。
マスコミは「もうマスクは不要だと思う」「時短制限や酒類提供制限は無意味だと思う」「2類を5類に落とした方がよいと思う」というアンケートは絶対に実施しないでしょう。
人流を抑制するというのも、コミュニケーションを分断することで、世論が都合の悪い方向に盛り上がることを防ぐ意図もあるのではないかと勘ぐりたくなります。
ちなみに長年に渡って人生相談コーナーを受け持つ鴻上氏によると、社会が低迷していると人々の悩みも内向的で深刻化していき、そしてやたらと「絆」「団結」という単語が用いられるようになるそうです。
経済が好調だと、社会からはみ出しても「何とかなるさ」と楽観的になれるけど、これだけ先行き不透明な状況だと内にこもって世間と繋がりたくなる、と。
戦時も直前に世界恐慌があった時代でしたし、社会的に共通する背景があるのかもしれません。
まとまりのない長文になって恐縮ですが、日本人の特性や日本という国の立ち位置など、色々と危うい要素があるのだということを痛感させられた次第です。
自分としては、今後「公」のためにどのような行動をとっていくべきか、考え中です。