今号の感想です。 ゴーマニズム宣言・第431回「天皇陛下・眞子さま・小室氏」 天皇陛下がコロナ脳であるかもしれない、という話は最初の方で記しましたようにショックでしたが、人間は必ずしも正しい判断をできるとは限らない、人の影響を大きく受けてしまい、冷静な判断から遠ざかってしまうこともある、ということなのでしょう。 コロナ恐怖症の話を聞いていると、一般にはイソップ寓話だと言われている「ろばを売りにゆく親子」の話を思い出します。有名な話なので説明しませんけれども、人の意見を参照したり、諮問したりする場合でも、まずは(相手の人柄などに捕らわれずに)自分でその意見が合理的なものか判断し、正しい決断を下さないといけない。場の空気に支配されて、みんながそういっているから正しい、というように思い込まないことが肝要なのか、と思います。しかし、どうしたら、多数派の意見を覆すことができるのか、そのことを悩みます。非情かもしれないけれども、まずは自分だけでも正常を保つことを心がけるしかないのかな、と。 小室圭氏と眞子内親王殿下の話も、「みんなが言っているから」という話の典型例であり、だからといって容易に醜聞を真に受け、小室氏のバッシングが正義だ、みたいに思い込まないのが大事なのかな、と思います。とにかく多数派と戦わなければならない、何らかの形で、と思いました。いっそ、TV局やラジオ局、新聞が全部この世の中からなくなればいいのに、ともしもBOXがあったら、頼むかも知れないです。 というのが感想ですが、少し個人的な思いをさらにつけ加えます。こびナビの下っ端の医師がよしりん先生と話し合いをしたいと言ってきた話がありましたが、私はその話で、先に、ウィキペディアの「玉川徹」の項目が荒らされたとか言って、ウィキペディアの編集者というか、管理者クラスの人たちが大騒ぎをして、記事が半ブロック状態になっていることを思いました。何でも「特筆性」ということが問題になっているみたいで、それを見ていて(私もウィキペディアはよく拝見し、利用します)、いったい「特筆性」とは何なのか、と思うのです。何か「特別に書かなければいけないこと」だというのなら、巷で話題になっていることに関連して、誰かが誰かと意見の討論をしたいと希望しているのに、片側が一方的に断っている状態があるのは、どう見ても「特筆性」があるのではないか、と感じるのですが、どうなのでしょうか?出典がブログだから不確実だ、というのは関係なのではないか、とも思うのですが、どうでしょうか?多数が言ったことが正しく、出典になるのでしょうか?関係者以外の第三者が口にしたことの方が信憑性があるのでしょうか? いちおう情報量の問題や用語検索の際にトップに現れるので、先に記したように私もウィキペディアを利用しているのですが、果たして「公平性」とか「客観性」がその中にあるのか、という疑問は感じます。しかし、あの百科事典を編集する人たちは、誰もそのことをあまり気にしないのでしょうか。ただ世間で評判になっている事柄を是とし、名作扱いされている作品を名作とし、隠れた勝れたものについては見向きもしない。多数決で記事の「特筆性」を決める。資料が不十分ならば、何か注意書きを貼り付ければいいと思っていて、自分たちでそのことについて調べようともしない。だから内容に誤りのある項目も存在する。それで、公平な百科事典としての役割が果たせるのか。かつて、ウィキペディア直しのコーナーがライジングにあったそうですが、復活して欲しいような、そんな気分になります。ウィキペディアこそ、大衆社会の病理を顕著に示している存在のような気もするのですが。 以上、何となく世評と真実の違いとか、マスコミに流される私たち、ということを考えていたら、感想につけ加えたくなりました。「みんながあんたのことをおかしいし、要らないと要ってるんだ」というようなことはずっと言われてきたことなので、こういう、一見公平なものと思われる存在の中立性の有無については敏感になります。 長々と脱線してしまいました。すみませんでした。
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今号の感想です。
ゴーマニズム宣言・第431回「天皇陛下・眞子さま・小室氏」
天皇陛下がコロナ脳であるかもしれない、という話は最初の方で記しましたようにショックでしたが、人間は必ずしも正しい判断をできるとは限らない、人の影響を大きく受けてしまい、冷静な判断から遠ざかってしまうこともある、ということなのでしょう。
コロナ恐怖症の話を聞いていると、一般にはイソップ寓話だと言われている「ろばを売りにゆく親子」の話を思い出します。有名な話なので説明しませんけれども、人の意見を参照したり、諮問したりする場合でも、まずは(相手の人柄などに捕らわれずに)自分でその意見が合理的なものか判断し、正しい決断を下さないといけない。場の空気に支配されて、みんながそういっているから正しい、というように思い込まないことが肝要なのか、と思います。しかし、どうしたら、多数派の意見を覆すことができるのか、そのことを悩みます。非情かもしれないけれども、まずは自分だけでも正常を保つことを心がけるしかないのかな、と。
小室圭氏と眞子内親王殿下の話も、「みんなが言っているから」という話の典型例であり、だからといって容易に醜聞を真に受け、小室氏のバッシングが正義だ、みたいに思い込まないのが大事なのかな、と思います。とにかく多数派と戦わなければならない、何らかの形で、と思いました。いっそ、TV局やラジオ局、新聞が全部この世の中からなくなればいいのに、ともしもBOXがあったら、頼むかも知れないです。
というのが感想ですが、少し個人的な思いをさらにつけ加えます。こびナビの下っ端の医師がよしりん先生と話し合いをしたいと言ってきた話がありましたが、私はその話で、先に、ウィキペディアの「玉川徹」の項目が荒らされたとか言って、ウィキペディアの編集者というか、管理者クラスの人たちが大騒ぎをして、記事が半ブロック状態になっていることを思いました。何でも「特筆性」ということが問題になっているみたいで、それを見ていて(私もウィキペディアはよく拝見し、利用します)、いったい「特筆性」とは何なのか、と思うのです。何か「特別に書かなければいけないこと」だというのなら、巷で話題になっていることに関連して、誰かが誰かと意見の討論をしたいと希望しているのに、片側が一方的に断っている状態があるのは、どう見ても「特筆性」があるのではないか、と感じるのですが、どうなのでしょうか?出典がブログだから不確実だ、というのは関係なのではないか、とも思うのですが、どうでしょうか?多数が言ったことが正しく、出典になるのでしょうか?関係者以外の第三者が口にしたことの方が信憑性があるのでしょうか?
いちおう情報量の問題や用語検索の際にトップに現れるので、先に記したように私もウィキペディアを利用しているのですが、果たして「公平性」とか「客観性」がその中にあるのか、という疑問は感じます。しかし、あの百科事典を編集する人たちは、誰もそのことをあまり気にしないのでしょうか。ただ世間で評判になっている事柄を是とし、名作扱いされている作品を名作とし、隠れた勝れたものについては見向きもしない。多数決で記事の「特筆性」を決める。資料が不十分ならば、何か注意書きを貼り付ければいいと思っていて、自分たちでそのことについて調べようともしない。だから内容に誤りのある項目も存在する。それで、公平な百科事典としての役割が果たせるのか。かつて、ウィキペディア直しのコーナーがライジングにあったそうですが、復活して欲しいような、そんな気分になります。ウィキペディアこそ、大衆社会の病理を顕著に示している存在のような気もするのですが。
以上、何となく世評と真実の違いとか、マスコミに流される私たち、ということを考えていたら、感想につけ加えたくなりました。「みんながあんたのことをおかしいし、要らないと要ってるんだ」というようなことはずっと言われてきたことなので、こういう、一見公平なものと思われる存在の中立性の有無については敏感になります。
長々と脱線してしまいました。すみませんでした。