続き、すみません、度々と。興味のある方だけお読みになってください。 多様性を実現するには、そこには、他者を認める寛容さが必要となります。私は、元来日本人は、寛容な民族だと思っています。ここで、突然ですが、以前に触れました西部邁先生の民主主義について述べられた文を紹介いたします。 「民主主義を敵として生きてきた私にだって友がいなかったわけではない。その友とは、ほかでもない、デモクラシーのことである。敵を友とする寛容な気持ちからこんなことをいうのではない。寛容は私の理想ではあるが現実にはなっていない。ごく普通の意味で、私はデモクラシーを支持し民主主義を拒絶するのである。 近代日本の犯してきた数ある誤訳のうちで、デモクラシーを民主主義と訳したのは最悪の一つである。デモクラシーはデモス(民衆)のクラシー(支配)なのであるから、直訳すれば「民衆の支配」であり、それを熟語としたければ「民衆政」としておけばよかったのだ。そうしておけば、「多数参加」と「多数決」という社会的意思決定の一つの方式、それがデモクラシーであるということで話はお仕舞である。
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小林よしのりチャンネル
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続き、すみません、度々と。興味のある方だけお読みになってください。
多様性を実現するには、そこには、他者を認める寛容さが必要となります。私は、元来日本人は、寛容な民族だと思っています。ここで、突然ですが、以前に触れました西部邁先生の民主主義について述べられた文を紹介いたします。
「民主主義を敵として生きてきた私にだって友がいなかったわけではない。その友とは、ほかでもない、デモクラシーのことである。敵を友とする寛容な気持ちからこんなことをいうのではない。寛容は私の理想ではあるが現実にはなっていない。ごく普通の意味で、私はデモクラシーを支持し民主主義を拒絶するのである。
近代日本の犯してきた数ある誤訳のうちで、デモクラシーを民主主義と訳したのは最悪の一つである。デモクラシーはデモス(民衆)のクラシー(支配)なのであるから、直訳すれば「民衆の支配」であり、それを熟語としたければ「民衆政」としておけばよかったのだ。そうしておけば、「多数参加」と「多数決」という社会的意思決定の一つの方式、それがデモクラシーであるということで話はお仕舞である。