希蝶 のコメント

「コロナ論3第2章」の感想です。

ハンドルネーム:希蝶
性別:男
年齡:56歳(になったばかりです)
職業:清掃業

 感想ですが、私自身はグローバリズムにそれほど悪感情は抱いてはいませんでした。昔の日本船舶振興会のCMに毒されていたのでしょうか、「人類は兄弟」だと思っていたからです。あるいは、大学の恩師の「人と人が出会うのは縁」という言葉にも影響されていたからかも知れません。観光収入も大きなものだと思っていました。
 しかし、よしりん先生の意見を聞いて、とどのつまりは外国人は日本の文化に敬意を表して観光するのではなく、ただもの珍しいものを求めて来訪しているのだということが分かってきました。以前の「道場」でも聞きましたが、伊勢神宮に「中国人」用のトイレが作られているという話を聞き、おもてなしもゆきすぎるとおもねりと同じになるのかな、とも思います。
 確かに観光とは未知のもの、珍奇なるものを求める衝動が動機としてあってしかるべきだろうと思います。しかし、その一方で、その自分のえも知らぬものへの「尊敬の念」も必要なのではありますまいか。たとえ、それが不合理なもの、あるいは一見未開のものに見えたとしても、それがその場所における日常なのであって、容易に変更すべきものではないのかも知れない、と思います。西洋人からすれば日本人の入浴好き、清潔好きの方が「野蛮」に見えているのかも知れないわけで、香水文化の方が高等に思えているのかも知れないわけです。
 グローバリズムとインターナショナリズム、一見似ているようで、世界は一つと見るのか、多種多様と見るのかで、大きく異なっているのだろうと思います。よく引用する言葉なのですが、高島俊男さんの言葉をあげておきます。
「実は、人類諸種族の生活というのは、いろんなところであそんでいる子どもたちみたいなものなのだ。山の上の子どもたち、森の中の子どもたち、野原の子どもたち、川っぷちの子どもたち、海べりの子どもたち……。みなそれぞれの環境に応じ、またそれぞれの種族の性格に応じてあそびかたがちがう。
 ところが、自分たちのあそびかたが絶対に正しいと信じている山の上の子どもたちから見ると、他の場所の子どもたちのやっていることが、「無知だなあ」「おろかだなあ」「非能率だなあ」「おくれているなあ」と見える。かりに草原の子どもたちがみな年が小さくて、やっていることが幼稚であっても、そのうちに成長するにつれて自分たちのあいだでくふうして気のきいたやりかたを発明するだろうし、発明しなくていつまでも幼稚なままであったとしても山の上の子に害がおよぶわけではないのだから、ほうっておけばいいのである」(『漢字と日本人』文春新書より)
 コロナ論の感想で、ほかの著書を引用するのはお門違いかも知れませんが、自分もこういう考えをしています。精神障害があったとしても、知識がかたよっていたとしても、それはその人の特徴なのだから、迷惑がかからない限り、ほうっておけばいい、迷惑になるのならば、どういう点で問題なのか、論理的に説明すればいい、それに体して反駁があれば、それも合理的に説明すればいい、そんな感じです。
 同様に。、世界のルールは一つではなく、その国や地域の個性に応じて多種多様であって欲しいと願います。

 こんな感じでよいでしょうか?
 話題を変えますが、毎度のことですが、勝手にほかの人のQ&Aにコメントしてしまったことをお詫びします。以後、そういうことは控えるつもりです。<m(__)m>。
 ただ、自分個人として気になったこともあるので、質問しようかな、とも思います。御諒承のほどを(没になったら、それはそれまでの話だとあきらめます)。

No.143 35ヶ月前

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