では、ちゃんとした感想を記します。 ゴーマニズム宣言・第419回「第1権力と化したテレビマンの狂気」 詳しくは記しませんが、自分も天狗になっていた時代があったのです。今でもかなり独善的で恣意的なことを記しているのかも知れませんし、そのことは反省しなければ、と思うのですが、簡単に言うと、とある受験関係の会社で、「戦争論」の宣伝を、社会の勉強法と称して文書化していたことがありました。 当時は、「興味を持つことが一番の勉強法」・「好きこそものの上手なれ」で、一方では「艱難汝を玉にす」がモットーでもあったので、苦労するなら、関心を持つことが一番と、南京事件の赤ん坊が泣いている写真が嘘だ、ということを文書として書いたことがあるのです。しかし、それは会社の受験勉強法指導でやってはならないことでした。そして、そのことが自分では判断できず、何だか風あたりが強い、というふうにしか感じなかった。これも「艱難」なのか、という勘違いをしていた、という話です。 実を言うと、今でもこのモットーはそんなに変わってはいません。ただ、私的にしていいことと、公的にはいけないことの区別はつけなければいけないのではないか、と理解はしています。ただし、公的にはいけないからと言って、その判断が全体に不利益にはたらくのなら、どうすれば良いのか、そのことでは悩むことがあります(このコロナ問題のように)。当時の自分も偏った思考を高校生にさせるよりも、事実を伝え、それに対する判断を、受験生に考えさせることの方が、より思考力をあげるのではないか、という考えをしていたのでしょう(自己弁護をすると、試験にそういうことは書くな、ということも伝えました)。 私と公、という問題を考える場合、このコロナ報道はひとごとのようには思えないです。恐らく玉川なんとかさんも、当初は感染症を防ぐという正義感で動いていたのだろうと、善意に解釈すればそうなるのですが、次第に自分の伝えるように世の中が動いてゆくのが快感になり、止まらなくなってしまったのでしょう。そして、今から謝罪したところで、ひっこみがつかないところまで行ってしまったのでしょう。 だとしても、私は「ブラックジャック」の「腫瘍狩り」のように謝罪会見を開くところまでしなければならない、と玉川氏に忠告します。それで信用を失うとしても、それは自分が蒔いた種なのだから、自分が責任を負うべきでしょう。自分の場合も(これだけではないのですが)、結局、辞表を書かされる結末になったのだから。そして、そのことに無自覚で、同じようなことをしばしば繰り返してきており、どうしてこうなるのか尋ねようとしても、説明をしてくれるほど、「親切な」人は誰もいなかったのだから。 少なくとも、よしりん先生は「説明」は全部してくださっています。それは「玉川徹」に対する「親切」の心からではなく、ただ世の中が乱れるからという理由なのでしょうが、そういう言葉を聞けるだけ、「有難い」と思わなければいけないのではないのでしょうか?それを「一部の漫画家」呼ばわりで済まそうとする彼の態度は、傲慢でひねくれていますし、およそ素直ではないです。自分が社会の中心にいると錯覚しているだけで、お釈迦様のてのひらから抜け出せない孫悟空のようなものでしかないことに、いつ気がつくのでしょうか? それとも、会社ぐるみでやっていることなので、個人としては罪悪感がない、とのたまうのでしょうか?だったら、テレビ朝日全体で謝罪をすべきでしょう。そして、そのような組織に所属している限り、個人としての責任も免れないです。テレ朝がなくなれ、と言ってしまったら、「新潮45」事件と同じになってしまいますが、せめて謝罪会見はすべきでしょう。 と言っても、しないのでしょうか?だったら、相手を叩き潰すまでやるしかないのでしょうか。
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では、ちゃんとした感想を記します。
ゴーマニズム宣言・第419回「第1権力と化したテレビマンの狂気」
詳しくは記しませんが、自分も天狗になっていた時代があったのです。今でもかなり独善的で恣意的なことを記しているのかも知れませんし、そのことは反省しなければ、と思うのですが、簡単に言うと、とある受験関係の会社で、「戦争論」の宣伝を、社会の勉強法と称して文書化していたことがありました。
当時は、「興味を持つことが一番の勉強法」・「好きこそものの上手なれ」で、一方では「艱難汝を玉にす」がモットーでもあったので、苦労するなら、関心を持つことが一番と、南京事件の赤ん坊が泣いている写真が嘘だ、ということを文書として書いたことがあるのです。しかし、それは会社の受験勉強法指導でやってはならないことでした。そして、そのことが自分では判断できず、何だか風あたりが強い、というふうにしか感じなかった。これも「艱難」なのか、という勘違いをしていた、という話です。
実を言うと、今でもこのモットーはそんなに変わってはいません。ただ、私的にしていいことと、公的にはいけないことの区別はつけなければいけないのではないか、と理解はしています。ただし、公的にはいけないからと言って、その判断が全体に不利益にはたらくのなら、どうすれば良いのか、そのことでは悩むことがあります(このコロナ問題のように)。当時の自分も偏った思考を高校生にさせるよりも、事実を伝え、それに対する判断を、受験生に考えさせることの方が、より思考力をあげるのではないか、という考えをしていたのでしょう(自己弁護をすると、試験にそういうことは書くな、ということも伝えました)。
私と公、という問題を考える場合、このコロナ報道はひとごとのようには思えないです。恐らく玉川なんとかさんも、当初は感染症を防ぐという正義感で動いていたのだろうと、善意に解釈すればそうなるのですが、次第に自分の伝えるように世の中が動いてゆくのが快感になり、止まらなくなってしまったのでしょう。そして、今から謝罪したところで、ひっこみがつかないところまで行ってしまったのでしょう。
だとしても、私は「ブラックジャック」の「腫瘍狩り」のように謝罪会見を開くところまでしなければならない、と玉川氏に忠告します。それで信用を失うとしても、それは自分が蒔いた種なのだから、自分が責任を負うべきでしょう。自分の場合も(これだけではないのですが)、結局、辞表を書かされる結末になったのだから。そして、そのことに無自覚で、同じようなことをしばしば繰り返してきており、どうしてこうなるのか尋ねようとしても、説明をしてくれるほど、「親切な」人は誰もいなかったのだから。
少なくとも、よしりん先生は「説明」は全部してくださっています。それは「玉川徹」に対する「親切」の心からではなく、ただ世の中が乱れるからという理由なのでしょうが、そういう言葉を聞けるだけ、「有難い」と思わなければいけないのではないのでしょうか?それを「一部の漫画家」呼ばわりで済まそうとする彼の態度は、傲慢でひねくれていますし、およそ素直ではないです。自分が社会の中心にいると錯覚しているだけで、お釈迦様のてのひらから抜け出せない孫悟空のようなものでしかないことに、いつ気がつくのでしょうか?
それとも、会社ぐるみでやっていることなので、個人としては罪悪感がない、とのたまうのでしょうか?だったら、テレビ朝日全体で謝罪をすべきでしょう。そして、そのような組織に所属している限り、個人としての責任も免れないです。テレ朝がなくなれ、と言ってしまったら、「新潮45」事件と同じになってしまいますが、せめて謝罪会見はすべきでしょう。
と言っても、しないのでしょうか?だったら、相手を叩き潰すまでやるしかないのでしょうか。