Dr.U のコメント

 ウサギです。
 高森先生の今朝のブログを読んで刺激されました。
 憲法というのは、基本的に武力・暴力によって共同体を制圧した集団が、その制圧後にどのように共同体を運営をしていくかについての合意事項を、文章によって表明したものではないでしょうか。そして、その合意事項を破る者は、最終的に武力・暴力によって制裁を受けることになる。
 ざっくり言えば、憲法とは、「みんなで決めたルールを守らないやつがいたら、みんなでそいつをやっつけたり、追放したりしようぜ、そういうことでいいよな?」という、乱暴者たちによる約束事の表明ではないでしょうか。(ちなみに体制確立後には、その暴力の管理と行使は、いっしょに戦った仲間たちの中から選ばれた特定集団、端的には警察と軍隊に委ねられます。みながみな武力を保持するのは効率的でないからです。この特定集団は、武力を委ねられたことをいいことに、ときに暴走してしまうことがあります。ですから、全員で、しっかりと見張っておかなければならない。) 
 以上の理由において、武力・社会的暴力を手にしていない者たちがそのような約束事を表明するというのは、非常に虚しいことです。そんなことを表明しても、強力な武力を持った他の社会集団がそれを拒否したなら、それは効力を持ちえないからです。
 フランス革命であれ、明治維新であれ、ロシア革命であれ、新しい体制を打ち立てる戦いと、その完了時に表明される新しい国法(憲法)というものは、そういうものではないのでしょうか。憲法の効力を担保するのは、なによりもまず、それを表明した集団が保持する武力・暴力であるのに、そうした社会の成立原理から目を背けて、ひたすら「戦争を知らない子供たちさ~」などと歌っているような国民、それが今の日本人ではないでしょうか。そういう国民は、むきだしの現実の中で戦っている人たち、たとえば今現在、香港やミャンマーで戦っている人たちの目には、どのように映るでしょうか。

 しかし、憲法の条文のひとつひとつが暴力によって担保されているとすれば、現在、さまざまな形で社会において要求されている権利、女性の権利、先住民の権利、子供の権利、LGBTの権利、などを担保するのも、暴力ということになります。たとえば女性の権利に関して言えば、社会内において女性が男性に奴隷扱いされているところでは、最終的には、女性は自らの権利を獲得するためには、女性全員(及びそれに協力してくれる男性)と協力して、敵対的な男性集団を武力・暴力によって制圧しなければならない、ということになりますね。日本のフェミニストには、それだけの覚悟があるかな。

 …とこんなことを考えたりしたのですが、さすがにラディカルすぎるかな。憲法のことを考えるとき、私は、頭の一方に「戦争を知らない子供たち」を歌う人々、もう一方に、「全米ライフル協会」の人々の姿が思い浮かんだりするのですが、変でしょうか。
 

No.311 36ヶ月前

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