よしりん先生が3月24日のブログ「世界のゴー宣ファンサイト」への注文、で話題にされていますし、自分も気になったので、記します。カレーさんへ、失礼をご容赦下さい。 今回のQ&Aで、酒鬼薔薇の手記に人権があるか否か、とありましたけれども、殺人者は自分以外の同じ人間を殺しているので、そこに人権があるかと言えば、制約を受ける、と言われてしまうのが当然でしょう。 私の読んだことのある小説でこういうのがあります。 催眠術の実験をしている教授が2人居て、1人が競争相手に挑戦するために、催眠術である無関係な人間を自殺させてしまう、という筋です 少し引用 「君はニーチェを読んだことがあるか」だしぬけに質問された。 「はあ、以前に読んだことがありましたけれど……」と、僕がしどもどしながら答えると、先生は遮って、 「無理もない。今どきニーチェを語るのは物笑いの種かも知れぬが、若しそれが天才の仕事であるならば、たとい非人道的であっても、君は許す気にはならぬかね」 「さあ、どうですかね」 「いきなり、こう言っては君も返答に迷うであろうが、近頃はよく民衆の力ということが叫ばれて居るけれど、少くとも科学の領域に於ては、幾万人の平凡人も、一人の天才に及ばぬことを君は認めるであろう」 「認めます」 「そして、科学なるものが、人間の福利を増進するものである以上、科学的天才の仕事が非人道的であっても、君はそれを許す気にならないか」 (小酒井不木「闘争」より) そういう科学への過信が、コロナウイルスの自称専門家の跋扈を許す結果となったのではないか、と私は思うのですが、それはさておき、結局、その実験(犯罪)をした教授はその後、急死してしまい、競争相手だった教授も落胆してなくなってしまった、という結末でした。芥川龍之介の『地獄変』も、娘の焼け死ぬ様を描写した絵師は、結局自殺してしまったわけで、たとえそこに「科学の進歩」とか「藝術」とかがあったとしても、「人倫」には逆らえないということなのでしょう。かりに悪人を裁いた場合でも、人殺しは人殺しです。 しかし、その人殺し、暗殺で時代が動く場合もあるのだから(桜田門外の変や紀尾井坂の変など)、その人間が生前どのようなことをしていたか、といった基準はあろうし、それによる情状酌量はあってしかるべきなのでしょう。酒鬼の場合は、(彼が天才だったわけではなく、あるいは天才と勘違いしていたのか)ただ自分の宗教をつくり、自分のために儀式と称する手前勝手なことをしただけなので、それは非難されてしかるべきで、渡辺直美事件と同列に語ってはいけないと思います。 そりゃ誰だって、ジンクスみたいなものはあるでしょうが、そこに他者への迷惑を混ぜてはいけないと思います。まだこだわっているのか、と言われそうですが、自分のミスしたことは、そういうことなのかな、とも。自分にとっては「通過儀礼」でも、相手にはただの「災難」。こればかりは笑い話では済まされなかったのだろう。 こういうのを決めるのが、歴史の縦軸と、年齡とか成熟度とか、その時代の常識による橫軸なのでしょうか。ちなみに、コロナウイルスワクチン接種に関しては、先の小説よりも人体実験みたいで、不快な感じがします。 何となく思ったことをだらだらと述べてみました。
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よしりん先生が3月24日のブログ「世界のゴー宣ファンサイト」への注文、で話題にされていますし、自分も気になったので、記します。カレーさんへ、失礼をご容赦下さい。
今回のQ&Aで、酒鬼薔薇の手記に人権があるか否か、とありましたけれども、殺人者は自分以外の同じ人間を殺しているので、そこに人権があるかと言えば、制約を受ける、と言われてしまうのが当然でしょう。
私の読んだことのある小説でこういうのがあります。
催眠術の実験をしている教授が2人居て、1人が競争相手に挑戦するために、催眠術である無関係な人間を自殺させてしまう、という筋です
少し引用
「君はニーチェを読んだことがあるか」だしぬけに質問された。
「はあ、以前に読んだことがありましたけれど……」と、僕がしどもどしながら答えると、先生は遮って、
「無理もない。今どきニーチェを語るのは物笑いの種かも知れぬが、若しそれが天才の仕事であるならば、たとい非人道的であっても、君は許す気にはならぬかね」
「さあ、どうですかね」
「いきなり、こう言っては君も返答に迷うであろうが、近頃はよく民衆の力ということが叫ばれて居るけれど、少くとも科学の領域に於ては、幾万人の平凡人も、一人の天才に及ばぬことを君は認めるであろう」
「認めます」
「そして、科学なるものが、人間の福利を増進するものである以上、科学的天才の仕事が非人道的であっても、君はそれを許す気にならないか」
(小酒井不木「闘争」より)
そういう科学への過信が、コロナウイルスの自称専門家の跋扈を許す結果となったのではないか、と私は思うのですが、それはさておき、結局、その実験(犯罪)をした教授はその後、急死してしまい、競争相手だった教授も落胆してなくなってしまった、という結末でした。芥川龍之介の『地獄変』も、娘の焼け死ぬ様を描写した絵師は、結局自殺してしまったわけで、たとえそこに「科学の進歩」とか「藝術」とかがあったとしても、「人倫」には逆らえないということなのでしょう。かりに悪人を裁いた場合でも、人殺しは人殺しです。
しかし、その人殺し、暗殺で時代が動く場合もあるのだから(桜田門外の変や紀尾井坂の変など)、その人間が生前どのようなことをしていたか、といった基準はあろうし、それによる情状酌量はあってしかるべきなのでしょう。酒鬼の場合は、(彼が天才だったわけではなく、あるいは天才と勘違いしていたのか)ただ自分の宗教をつくり、自分のために儀式と称する手前勝手なことをしただけなので、それは非難されてしかるべきで、渡辺直美事件と同列に語ってはいけないと思います。
そりゃ誰だって、ジンクスみたいなものはあるでしょうが、そこに他者への迷惑を混ぜてはいけないと思います。まだこだわっているのか、と言われそうですが、自分のミスしたことは、そういうことなのかな、とも。自分にとっては「通過儀礼」でも、相手にはただの「災難」。こればかりは笑い話では済まされなかったのだろう。
こういうのを決めるのが、歴史の縦軸と、年齡とか成熟度とか、その時代の常識による橫軸なのでしょうか。ちなみに、コロナウイルスワクチン接種に関しては、先の小説よりも人体実験みたいで、不快な感じがします。
何となく思ったことをだらだらと述べてみました。