roku のコメント

日本のあいまいさ について私が考えてきたこと

私は、ある日、大学院にて仏教を専攻する友人から、論文の要旨を英訳してほしいと頼まれました。(彼女にはその筋の専門家に頼む金銭的余裕がなかった)ので、英訳に挑んだわけですが、まず、彼女の論文内容をある程度理解しなければなりませんでした。それは、明恵(倉持さんの論考でも偶然でていたのですが)を論じたもので、かなり素人の私にとっては難解なものでした。要約の英訳のみですからそれほど長い文章ではないのですけれど、理解に苦しみつつ、英訳しながら、ぶち当たったのは、日本語を英語にする時、日本語があまりにも曖昧に表現することを許してしまっているので、英語にできないのです。そこで、友人にここは、~と言い切ってしまっていいのか?この部分は、すなわち、~ということなのか?
と、何度も何度も確認しなければなりませんでした。そして、友人も尋ねられると、「そこまで考えていなかった」とか「わからない、もう一度考えてみる」と答え、日本語の組み立て自体を大きく変更することが多々ありました。そこで、私が感じたのは、日本語というのは実にあいまいな表現でもそれ相応にみえ、許してしまうということです。つまり、理詰めの論文には、向かない言葉だと思いました。私自身、英語で論文を書く方が随分論立てて物を考えることができ、書きやすかったように思います。このように、日本語とは、非常にあいまいさを許容する言語だということです。言語というのは、いにしえの日本から姿を変えつつ日本人のすべてを吸収して出来上がってきているものですから、日本人の特性そのものを反映していると考えてよいでしょう。
そして、倉持さんが指摘されているようにそのあいまいさには、「善きあいまいさ」と「悪しきあいまいさ」があり、今回のコロナ騒動は、まさに日本の「悪しきあいまいさ」が露呈したのだと思います。いわゆる、日本人の「空気感」というのもこのあいまいさから作り出されたものと考えるのですが、相手を思いやる良き面もあれば、それによって、全体主義を作り出すという悪しき面があります。「悪しきあいまいさ」については、倉持さんがしっかりと論考されていますので、私からいうことは、ありません。
ただ、「善きあいまいさ」というものの存在も日本人としては大切にしたいところです。理詰めにせず、相手に逃がす余白を残すというか、優しさというのか、言葉にできない情緒、感性を大切にするとか、日本の文化の様々なところでその美徳をみることはできます。まだ、考えがまとまってはいないのですが、結局、天皇と国民の関係もこの「善きあいまいさ」が
大きく存在していると考えています。西欧の絶対君主制ではない日本独特の天皇、皇室と国民の関係。それは、理屈をこえた深い深い結びつきがあると思っています。天皇、皇后両陛下に直に対面すると自然と涙ぐむ日本人は多くいます。なぜでしょう。

倉持さんがその論考で引用されていた漱石の言葉
「私が独立した一個の日本人であって、決して英国人の奴婢ではない以上はこれくらいの見識は国民の一員として具えていなければならない上に、世界に共通な正直という徳義を重んずる点から見ても、私は私の意見を曲げてはならないのです」
私たちは、これから、日本の内発的な近代化を「善きあいまいさ」を認めながら私たち自身の手でつくりあげていかないとと思います。様々な国内外の問題に対処するためにも。

倉持さんの「2021年 あいまいな日本の私」を読んでの感想でした。

No.391 43ヶ月前

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