仏教では「諦」は真理に通じる言葉だそうです。凡俗の私には釈迦の唱えた「四聖諦」なるものは理解できそうにありませんが、仏教の中核にあるのは、あきらめというよりも、こだわらないということのように思えます。コロナウイルスの排除にやっきにならない、感染対策に対する拘りを捨てる。その態度は諦観より生じるでしょうし、ご実家が仏門に所縁のある小林先生ならではの視点でしょう。コロナ禍の砌、仏教者の声がまるで聞こえてこないことがとても残念です。結局のところ、世のあり方を歪め、他人の生活の糧を奪い、自分たちだけ生き残らんとする我執、それが日本におけるコロナ禍の正体ではないでしょうか。我執を断ち切り現実に向き合うには、まず諦観に至ることが肝要かと思われます。 これを俗っぽく言えば「人間はいつか死ぬ」です。「コロナじゃなくても死ぬ」です。なんなら「風呂場で5000人死ぬし、三大成人病で死亡する可能性のほうが高い」です。これが諦観から生じる科学的な結論ですよ。これを言っても「コロナが怖いんだい、だってテレビでやってるから怖いんだい、怖い怖いこわ~い」なのが大衆なので、ちっとも大人じゃないし、科学的でもないと言っているんですね。
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小林よしのりチャンネル
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仏教では「諦」は真理に通じる言葉だそうです。凡俗の私には釈迦の唱えた「四聖諦」なるものは理解できそうにありませんが、仏教の中核にあるのは、あきらめというよりも、こだわらないということのように思えます。コロナウイルスの排除にやっきにならない、感染対策に対する拘りを捨てる。その態度は諦観より生じるでしょうし、ご実家が仏門に所縁のある小林先生ならではの視点でしょう。コロナ禍の砌、仏教者の声がまるで聞こえてこないことがとても残念です。結局のところ、世のあり方を歪め、他人の生活の糧を奪い、自分たちだけ生き残らんとする我執、それが日本におけるコロナ禍の正体ではないでしょうか。我執を断ち切り現実に向き合うには、まず諦観に至ることが肝要かと思われます。
これを俗っぽく言えば「人間はいつか死ぬ」です。「コロナじゃなくても死ぬ」です。なんなら「風呂場で5000人死ぬし、三大成人病で死亡する可能性のほうが高い」です。これが諦観から生じる科学的な結論ですよ。これを言っても「コロナが怖いんだい、だってテレビでやってるから怖いんだい、怖い怖いこわ~い」なのが大衆なので、ちっとも大人じゃないし、科学的でもないと言っているんですね。