Dr.U のコメント

 こんにちは、ウサギです。
 西浦氏の2冊の本についてアマゾンに投稿しておいた私の辛口レビューが、掲載より一月後のこのたび、見事に消去されておりました。まぁ、youtubeと同様、アマゾンには公共性とか理念とかはないでしょうから、こんなもんなのでしょうね。一応、参考までに、以下にその二つのレビューを転載させていただきます。

 以下、長くなります。既にご一読くださった方は、御勘弁、読み飛ばしてくださいませ。

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西浦博『理論疫学者・西浦博の挑戦 新型コロナからいのちを守れ!』についてのレビュー
カスタマーレビュー/Dr.U

5つ星のうち2.0
《感動の物語》の主人公・西浦博
2020年12月17日に日本でレビュー済み

 西浦氏が世に広く知られるようになったのは、4月中旬の会見で彼が発した、《対策なしでは42万人が死亡する》発言や《接触8割減が絶対に必要》発言によってである。これらの発言に対しては、周知のとおり、42万人という数字はあまりにも大きすぎではなかったか、実際、死者数はそれより遥かに少なかったではないか、といった批判がなされた。これに対して、本書では、これはあくまでも「最悪の被害想定」について述べたもので、何ら問題はないという反論がなされている。しかし、本当に、そこに問題はないのだろうか。
 ここで注目されるのは、西浦氏が『ニューズウィーク』6月9日号のインタビューで、《何も対策をしない》という前提は「現実にはあり得ないシナリオ」であり、さらにはそれは「科学者の極論」であると、明言していることである。つまり西浦氏自身が、《対策なしでは42万人が死亡する》というのは、可能性はあるにはあるが、極めてゼロ%に近い可能性のシナリオであると認めているのである。しかし、そうであるならば西浦氏は、4月中旬の会見で、そのことを明確に説明すべきではなかったか。これが一つ目の問題点である。
 二つ目の問題点は、もし《対策なし》の死者数が42万人ならば、《ふつうの対策》のときにはどれくらい死者が見込まれるかを、西浦氏が具体的に示さなかったことだ。ここで言う《ふつうの対策》とは、例年、風邪やインフルエンザに対して人々がとっていた程度の対策(こまめに手洗いやうがいをするなど)のことである。実際のところ、世の中で生活する人々にとってプラクティカルな意味で最も必要であったのは、この《ふつうの対策》をしている場合に、どれくらいの死者数が出そうか、ということの見積もりであったはずだ。
 以上の点において、西浦氏の4月以降の発言は、極めて問題の大きいものであった。実際、その発言によって、何が起こったか。無理もないことであるが、人々は西浦氏の発言を、《もし『接触8割減』という言葉で表現されるような強力な感染対策(自粛)を実施しなければ、これから数十万人の人が犠牲になるだろう》というメッセージとして受け止め、社会全体が一種のパニック状態に陥ったのだ。考えてみてほしい。自らの説が極論であることを明らかにせず、偏った情報だけを示して人々を扇動するというのは、果たして科学者として正しい行為だろうか? 科学者のやるべきことは、科学的な知見を、誤解のないようにバランスよくクリアーに社会に対して示すことではないのか? 
 偏った情報だけを示して、ということで言えば、この本にはまた、とうてい看過できない問題がはらまれている。この本では前半から、いかに自分が日本における新型コロナウイルスの感染拡大に危機感を抱き、それを抑えるために奮闘してきたかを自画自賛的に述べている。その一方で、日本国内における新型コロナについて(感染者数と並ぶ)もう一つの重要なファクターである、海外の事例と比較して、また他の感染症(インフルエンザや肺炎球菌)などと比較して、国内死者数がきわめて少ないという事実に、ほとんど言及しない。これは、新型コロナについて書かれた本としては、まったく不自然と言うしかない。
 本書では、わずかに西浦氏は、なぜ死者数が国内で少ないかについて、「生物学的な理由など欧米と違うものがあるということが今後立証」されない限りは、まだ当てにできないと述べている。しかし、これは不可解な発言だ。日本国内で最初のコロナ患者が報告されてから既に10か月以上も経過し、コロナについては100%のことが解明されていなくても、その基本的性質についてはかなりのところまで明らかになっている。いわゆる《ファクターX》のメカニズムが全て分かっていなくても、現実として、新型コロナの死者数は、季節性インフルエンザの年間1万人の死者数にはとうてい及ばないであろうことはもはや明白なのだ。それなのに、なぜ、まだ当てにできないということになるのだろうか。
 それだけではない。この本が、明らかに意図的に避けている話題がもう一つある。それは、新型コロナのいわゆる第一波が、強力な感染対策が実施されるようになる4月上旬の緊急事態宣言より前の3月末にはピークアウトしていたという事実である。これは、京都大学の藤井聡氏や宮沢孝幸氏、漫画家の小林よしのり氏など、何人かの識者たちが早い時期から指摘していたことである。強力な感染対策が実施される前に第一波は自ら収束していったのであれば、4月以降の対策は過剰にして不要であったのではないか、またこの3月末ピークアウトの事実は遅くとも4月末には専門家の間で明らかになっていたのだから、5月以降の緊急事態宣言の延長などは不適切なものではなかったのか、という藤井氏らの批判はかなり説得力がある。ところが、本書ではこの話題について全く触れられない。これはもはや不自然という言葉では済まされない話であろう。
 さて、それではなぜ本書には、以上のような《不自然な点》が数多く見受けられるのだろうか。それを理解するカギは、以下の点にあるように思う。この本を全部読み通した人は、西浦氏とその仲間たちが、いかにして様々な苦労を乗り越えながら「感染の拡大」(死者数の増大ではない)を抑えようとしたかが、物語風に述べられていることに気づくだろう。その物語の最高潮は、感染症対策分科会の尾身茂氏が西浦氏らに投げかけた、次のような言葉のくだりである。

「(尾身氏は)テーブルを叩きながら…『お前たちはそんなもんなのか…今はとにかく流行を止めるぞ』と言いながら、目に涙をためてみんなをいさめてくれた。…それで、僕たちはここまでやってこられた。」 

 これはもう「プロ〇ェクトX」顔負けの、科学者たちの感動物語である。 
 つまり、こういうことだ。そもそも西浦氏らの諸々の活動の本来の目的は、①新型コロナによって人々が被る身体的・精神的苦痛(端的には死者数)を可能な限り少なくする、ということであったはずだった。ところが、なぜか本来の目的が見失われてしまい、②新型コロナの感染の拡大を徹底的にゼロにまで抑えるということが、いつしか彼らにとっての至上の使命になってしまった。言うまでもなく①と②とはイコールではない。なぜなら、仮に国内で多くの感染者が出たとしても、それによる死者(健康被害)が比較的少なければ(例えばインフルエンザ以下になりそうならば)、②は絶対的な使命とはならないからである。ところが西浦氏は、人々の命を救ったり心身の苦しみを軽減するという本来の使命から離れて、いわば《みんなで力を合わせて感染者をゼロまで減らそう物語》とでもいうべきドラマの主人公になってしまった。
 このような《感動の物語》の中にある西浦氏らにとって、「他の感染症と比べて死者が非常に少ない」とか、「過剰な感染対策をとらなくても第一波はピークアウトした」などという指摘は、彼らが浸っている感動に水を差すような、不愉快な雑音であるに違いない。
 西浦氏がこのような《感動の物語》に没頭するのは、個人の自由である。ただし、あくまでもそれは、そのことが社会に多大な迷惑や損害を与えない限りにおいてである。実際、西浦氏が過剰な感染対策に固執することによって、社会に何が起こっているかは、言うまでもなかろう。それは失業や倒産だけではない。それに伴う自殺数の増加、文化的活動やスポーツの衰退、まともな学生生活が送れない若者たちの苦悩、女性や子供に対するDVの増加、感染を恐れて家に閉じこもってしまった高齢者たちの心身の健康の損失、等々。つまり、(西浦氏お得意の)数値化ができないところで、様々な深刻な社会的副作用が発生しているのであり、それは今後も拡大していくことが予想されるのだ。
 ここで注目されるのは、4月11日のインタビュー記事の中の、次のような発言だ。そこでは西浦氏は、自分が接触を「8割」減らさなければならないとか、何もしなければ「42万人」が犠牲になるとかの数字を提示する理由は、西浦氏らの認識するところでは「流行のリスクは、いますぐ止めなくてはいけないという危機的なもの」であり「社会活動を制限することで受ける損失をはるかに超える」ものであるからだと述べている。
 どうやら西浦氏は、ひどい了見違いをしているようである。そもそも、西浦氏ら感染症の専門家に委ねられているのは、新型コロナという疫病のリスクに関する客観的な評価であって、決して「社会的活動を制限することで受ける損失」の評価ではない。後者の評価をしたり、前者と後者を比較したりするのは、社会や経済や教育や福祉などの専門家たちであり、また日々の社会活動に携わる生活者たちであろう。西浦氏ら感染症の専門家たちが、前者だけでなく後者までも評価し、それらを天秤にかけて、どちらがより「危機的」であるかを勝手に判断し、そうした判断に基づいて様々な数字を非常に偏向したありかたで提示して、自分たちの望む方向に社会を誘導していくなどということは、全くの越権行為なのだ。
 結論的に言えば、この本は、《自分は自分なりに一生懸命頑張ったんだから、僕ばかりそんなに責めないでくれ!》と、社会に対して幼稚な言い訳をしようとする本である。2020年10月の自殺者数は2153人、昨年よりも40%増。その多くが女性。この月だけで、それまでの新型コロナの国内死者数を上回る。今後、数年にわたって、社会的に弱い立場にある人々の身の上に、大きな苦難と絶望が生じることになるだろう。過剰な対策をとらなければ、例年のインフル並みの対策で済ませていれば、避けることができたであろう、大きな苦難と絶望。この現実に目を背けながら、西浦氏は、今後の人生を生きていくつもりなのだろうか。

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西浦博(ほか)『新型コロナウイルスと闘うために数学にできること』についてのレビュー

 西浦氏は、この12月に2冊の本を出版している。一つは一般向けに書かれた『理論疫学者・西浦博の挑戦:新型コロナからいのちを守れ!』というもの。そして、もう一つがこの、専門家向けに書かれた論文集である。その中の西浦氏の論文「感染症数理モデル元年に…」には、彼の本性がより明瞭に現れ出ているように思う。

 この論文の冒頭部で、西浦氏は次のように述べている。

「数理モデルを利用した(新型コロナの)流行対策に専門家会議や厚生労働省の中から関わったことが社会に広く知られるようになり、嬉しい想いもつらい経験も多々あった。最も嬉しいことは、数多くの方が専門内外に関わらずSIRモデルに代表されるような数理モデル化とデータ分析に取り組んでくださったことである。」
「それが実践的に的を得たものかどうかは百家争鳴しがちな流行中は民主主義国家において大した問題ではない。…もちろん大変な想いのほうが多かった。人文科学系などの非専門家から受ける批判は感染症数理モデルを必ずしも十分に理解したものでないことが少なくなかった。」

 この後半部に特に注目されたい。どうやら西浦氏によると、自らが世に広めた「接触8割減しなければ42万人が死ぬ」という予言は、それが当たろうが外れようが、大した問題ではないらしい。そして、ロクに数理モデルを理解できない素人たちから批判を受けて、とても不快な気持ちになったらしい。
 西浦氏にとっては、たしかに「問題ではない」ことなのだろう。しかし、(彼のモデルに基づいて推し進められた)過剰な自粛がもたらした社会的副作用に、今も苦しみつづけている人々にとっては、どうだろうか。
 この点について、次の西浦氏の言葉は非常に興味深い。

「とんでもないモデル研究があろうとも、民主主義の世界において科学的発見を主張する言論は自由であるべきであるし、何らかの対価を仮に支払おうとも研究に関わるプロの数が増えないといけないのが日本の現状である。」

 つまり西浦氏によると、いかに「今すぐ接触8割減しなければ42万人が死ぬ」のようなトンデモナイ極論でも、言論の自由というお題目の下では、好き勝手に発表して何ら問題ないということになるようだ。そして、自分のような理系研究者を増やすためには、多くの市井の人々が犠牲になっても、仕方がないらしい。

 もちろん、西浦氏は自分のこれまでの言動に全く問題がなかったとは思っていないようだ。彼なりに、反省するところはあるらしい。最後に、その反省の気持ちが窺われる、『理論疫学者・西浦博の挑戦』の中の一節を紹介しておく。

「ここまで読んでくださった方には分かっていただけると思いますが、やっている間は必死だから、気付かない。そこまで冷静に手を打てているわけではなくて、科学的に真であると思っていることを、とにかく、ただただやってきただけです。 しかしながら、事後的に見るとピュアにやりすぎているというのは明白で、一番ピュアっぽいのが 自分自身だった。」

 …前言を撤回する。彼は自分のことを、無邪気で罪のない科学者だと、思いたがっている、いや本気で思っているようだ。
  You may be pure, but guilty enough.

No.59 47ヶ月前

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